奈良期創建の国内大社の一つ、戦国期に衰微、牛頭天王宮
[住所]広島県福山市神辺町上御領602
[電話]-
素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、広島県福山市神辺町上御領にある神社。井原鉄道井原線の御領駅の北、国道313号線や山陽道を越えたところ。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳の山陽道神 備後国 深津郡「須佐能袁能神社」、安那郡「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」に比定される式内社(小社)の論社。
奈良時代の天平年間(729年-749年)、備後国司の小治田諸人が創建したと伝えられる。御祭神は素盞嗚命。
古くは備後国内の大社の一つだったが、室町時代の応仁年間(1467年-1469年)、社殿が大破、氏子らが小社を建てて、旧蹟を守ったという。
戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)、毛利元就が再建を命じた。『水野記』によると、杉原盛重が社領3貫を寄進したが、福島正則に没収されたという。
江戸時代後期の『西備名区』に「祇園牛頭天王社 安那郡上御領村」とある。俗称を天王社と称し、牛頭天王を祀っていた。
現在も、入口の鳥居には、「天王宮」と刻まれた扁額が掛かり、一部の地図には「天王神社」とあり、天王社、通称は天王さんとも。
昭和27年(1952年)、神社本庁に対して、当社が式内社「須佐能袁能神社」であるという明細書が提出されたという。
式内社「須佐能袁能神社」の他の論社に、市内新市町の当社と同名の神社、蔵王町の天神社、東深津町の王子神社がある。
313号線の北側にある道路沿いの参道入口に灯籠が建っており、「御領大石 登山道入口」という案内がある。
その足元には、「延喜式内 多祁伊奈太伎佐耶布都神社」「御領八丈岩」と刻まれた二本の石碑がある。
当社が式内社「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」の論社だという根拠は不明。他の論社に、山野町の岩屋権現と呼ばれる多祁伊奈太岐佐耶布都神社、神辺町の二宮神社がある。
当社の境内には、荒神社など境内社がいくつか祀られている。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災

【関連記事】
・広島県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、広島県に鎮座している神社の一覧
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素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、広島県福山市神辺町上御領にある神社。井原鉄道井原線の御領駅の北、国道313号線や山陽道を越えたところ。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳の山陽道神 備後国 深津郡「須佐能袁能神社」、安那郡「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」に比定される式内社(小社)の論社。
奈良時代の天平年間(729年-749年)、備後国司の小治田諸人が創建したと伝えられる。御祭神は素盞嗚命。
古くは備後国内の大社の一つだったが、室町時代の応仁年間(1467年-1469年)、社殿が大破、氏子らが小社を建てて、旧蹟を守ったという。
戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)、毛利元就が再建を命じた。『水野記』によると、杉原盛重が社領3貫を寄進したが、福島正則に没収されたという。
江戸時代後期の『西備名区』に「祇園牛頭天王社 安那郡上御領村」とある。俗称を天王社と称し、牛頭天王を祀っていた。
現在も、入口の鳥居には、「天王宮」と刻まれた扁額が掛かり、一部の地図には「天王神社」とあり、天王社、通称は天王さんとも。
昭和27年(1952年)、神社本庁に対して、当社が式内社「須佐能袁能神社」であるという明細書が提出されたという。
式内社「須佐能袁能神社」の他の論社に、市内新市町の当社と同名の神社、蔵王町の天神社、東深津町の王子神社がある。
313号線の北側にある道路沿いの参道入口に灯籠が建っており、「御領大石 登山道入口」という案内がある。
その足元には、「延喜式内 多祁伊奈太伎佐耶布都神社」「御領八丈岩」と刻まれた二本の石碑がある。
当社が式内社「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」の論社だという根拠は不明。他の論社に、山野町の岩屋権現と呼ばれる多祁伊奈太岐佐耶布都神社、神辺町の二宮神社がある。
当社の境内には、荒神社など境内社がいくつか祀られている。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災

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