『神道集』8巻 第48の説話に記載された神々
「上野国那波八郎大明神事」所載の神社とは、室町時代の『神道集』第四十八のこの説話に記載されている神社の総称である。すべて、現在の群馬県に所在する。
「上野国那波八郎大明神事」の具体的な内容はこちら。
簡単に言ってしまえば、兄たちの嫉妬を買った末弟が虐殺され、怨霊になり、兄たちやその一族を皆殺しにする。その怨霊となった末弟は復讐を終えても、生贄を求め続ける。ある年の生贄に選ばれた娘が、夫と協力して、怨霊を改心させる、というもの。
『古事記』にある、八十神に迫害された大国主命と、八岐大蛇退治の素盞鳴尊を合わせたような話ではある。
これとほとんど同じ内容の説話が、高崎市倉賀野町の倉賀野神社に「飯玉縁起」として伝わり、群馬県を中心に飯玉神社という神社が多く鎮座し、信仰の広がりも見て取れる。
『神道集』そのものが、東国の説話に偏っているとの指摘はあるし、この「上野国那波八郎大明神事」は、「上野国児持山之事」などとともにその最たるもの。
ただ、『神道集』とはいえ、全国的に普遍的な事象を扱っていることが過半ではあって、「上野国那波八郎大明神事」はその中でも決してメジャーな話、メジャーな神社が主役ではない。
にもかかわらず、この説話が取り上げられた背景には興味深いものがある。

[特徴]群馬八郎満胤
[本地]薬王菩薩
[住所]伊勢崎市福島町2-1
[電話]-

[特徴]宮内判官宗光(大納言右大将)
[本地]文殊菩薩
[住所]高崎市吉井町神保435
[電話]027-387-3623

[特徴]尾幡姫(海津姫)
[本地]普賢菩薩
[住所]甘楽郡甘楽町秋畑来波4447
[電話]-

[特徴]尾幡姫の両親、尾幡権守宗岡夫婦
[本地]男体:不動明王、女体:毘沙門天
[住所]甘楽郡甘楽町白倉3512
[電話]-

[特徴]八郎満胤の父、群馬太夫満行
[本地]地蔵菩薩
[住所]高崎市神戸町589
[電話]-

[特徴]群馬八郎満胤の母
[本地]虚空蔵菩薩
[住所]富岡市妙義町妙義6
[電話]0274-73-2119

[特徴]八郎満胤の怨霊と親しむ
[本地]吠尸羅摩女
[住所]渋川市伊香保町伊香保2
[電話]0279-72-3151

[特徴]八郎満胤の怨霊と親しむ
[本地]唵佐羅摩女
[住所]前橋市富士見町赤城山4-2
[電話]027-287-8202

[特徴]八郎満胤が死後投げ込まれた地
[本地]-
[住所]前橋市総社町総社1549
[電話]-
息子が8人いたが、八郎満胤は容貌美麗で才智に優れ、弓馬の術にも長じていたので、父の代理で都に出仕していた。父満行は八郎を総領に立て、兄7人を脇地頭とした。
父満行が亡くなり三回忌の後、八郎満胤は上京して3年間宮仕えに精勤し、帝から目代(国司代理)の職を授かった。7人の兄は弟を妬み、八郎に夜討ちをかけて殺害し、屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある蛇食池の中島の蛇塚の岩屋に投げ込んだ。
それから3年後、満胤の怨霊は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。神通自在の身となった八郎は7人の兄を殺し、その一族・妻子・眷属まで生贄に取って殺した。
帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を1年に1回だけにさせた。大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、9月9日に高井の岩屋に生贄を捧げることになった。
それから20年あまりが経ち、上野国甘楽郡尾幡庄の地頭・尾幡権守宗岡がその年の生贄の番に当たった。宗岡には海津姫という16歳の娘がいた。 宗岡は娘との別れを哀しみ、あてどもなくさまよい歩いていた。
その頃、奥州に金を求める使者として、宮内判官宗光という人が都から下向して来た。
宗岡は宗光を自分の邸に迎えて歓待し、様々な遊戯を行った。そして、3日間の酒宴の後に、宮内判官を尾幡姫(海津姫)に引き合わせた。宗光は尾幡姫と夫婦の契りを深く結んだ。
8月になり、尾幡姫が嘆き悲しんでいるので、宗光はその理由を尋ねた。宗岡は尾幡姫が今年の大蛇の生贄に決められていることを話した。
宗光は姫の身代わりになることを申し出た。そして夫婦で持仏堂に籠り、ひたすら法華経を読誦して9月8日になった。
宗光は高井の岩屋の贄棚に上ると、北向きに坐って法華経の読誦を始めた。やがて、石の戸を押し開けて大蛇が恐ろしい姿を現したが、宗光は少しも恐れずに読誦し続けた。
宗光が経を読み終わると、大蛇は首を地面につけて 「あなたの読経を聴聞して執念が消え失せました。今後は生贄を求めません。法華経の功徳で神になることができるので、この国の人々に利益を施しましょう」と言い、岩屋の中に入った。
その夜、震動雷鳴して大雨が降り、大蛇は下村で八郎大明神として顕れた。八郎大明神の本地は薬王菩薩である。
この顛末を帝に奏上したところ、帝は大いに喜び、奥州への使者は別の者を下らせることにして、宗光を上野の国司に任じた。宗光は26歳で中納言中将、31歳で大納言右大将に昇進した。尾幡権守宗岡は目代となった。
大納言右大将(昔の宮内判官宗光)は、多胡郡の鎮守・辛科大明神として顕れた。辛科大明神の本地は文殊菩薩である。
尾幡姫は野粟御前となった。野粟御前の本地は普賢菩薩である。
尾幡権守宗岡夫婦は白鞍大明神になった。この明神には男体と女体がある。白鞍大明神の男体の本地は不動明王、女体の本地は毘沙門天王である。
八郎大明神の父群馬太夫満行神は、群馬郡長野庄に満行権現として顕れた。今の戸榛名である。戸榛名の本地は地蔵菩薩である。
母御前は白雲衣権現として顕れた。白雲衣権現の本地は虚空蔵菩薩である。
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・神社いろいろ - 社格や形式などで神社を分類したまとめ - 神社めぐり全国編
「上野国那波八郎大明神事」の具体的な内容はこちら。
簡単に言ってしまえば、兄たちの嫉妬を買った末弟が虐殺され、怨霊になり、兄たちやその一族を皆殺しにする。その怨霊となった末弟は復讐を終えても、生贄を求め続ける。ある年の生贄に選ばれた娘が、夫と協力して、怨霊を改心させる、というもの。
『古事記』にある、八十神に迫害された大国主命と、八岐大蛇退治の素盞鳴尊を合わせたような話ではある。
これとほとんど同じ内容の説話が、高崎市倉賀野町の倉賀野神社に「飯玉縁起」として伝わり、群馬県を中心に飯玉神社という神社が多く鎮座し、信仰の広がりも見て取れる。
『神道集』そのものが、東国の説話に偏っているとの指摘はあるし、この「上野国那波八郎大明神事」は、「上野国児持山之事」などとともにその最たるもの。
ただ、『神道集』とはいえ、全国的に普遍的な事象を扱っていることが過半ではあって、「上野国那波八郎大明神事」はその中でも決してメジャーな話、メジャーな神社が主役ではない。
にもかかわらず、この説話が取り上げられた背景には興味深いものがある。
同説話に出てくる神社など
八郎大明神 八郎神社

[特徴]群馬八郎満胤
[本地]薬王菩薩
[住所]伊勢崎市福島町2-1
[電話]-
辛科大明神 辛科神社

[特徴]宮内判官宗光(大納言右大将)
[本地]文殊菩薩
[住所]高崎市吉井町神保435
[電話]027-387-3623
野粟御前 野栗神社

[特徴]尾幡姫(海津姫)
[本地]普賢菩薩
[住所]甘楽郡甘楽町秋畑来波4447
[電話]-
白鞍大明神 白倉神社

[特徴]尾幡姫の両親、尾幡権守宗岡夫婦
[本地]男体:不動明王、女体:毘沙門天
[住所]甘楽郡甘楽町白倉3512
[電話]-
満行権現(戸榛名) 戸榛名神社

[特徴]八郎満胤の父、群馬太夫満行
[本地]地蔵菩薩
[住所]高崎市神戸町589
[電話]-
白雲衣権現 妙義神社

[特徴]群馬八郎満胤の母
[本地]虚空蔵菩薩
[住所]富岡市妙義町妙義6
[電話]0274-73-2119
伊香保沼の龍神 伊香保神社

[特徴]八郎満胤の怨霊と親しむ
[本地]吠尸羅摩女
[住所]渋川市伊香保町伊香保2
[電話]0279-72-3151
赤城沼の龍神 赤城神社

[特徴]八郎満胤の怨霊と親しむ
[本地]唵佐羅摩女
[住所]前橋市富士見町赤城山4-2
[電話]027-287-8202
高井の岩屋 蛇穴山古墳

[特徴]八郎満胤が死後投げ込まれた地
[本地]-
[住所]前橋市総社町総社1549
[電話]-
「上野国那波八郎大明神事」現代語要約
奈良時代末期、第49代光仁天皇の御代、上野国群馬郡の地頭は群馬大夫満行といった。息子が8人いたが、八郎満胤は容貌美麗で才智に優れ、弓馬の術にも長じていたので、父の代理で都に出仕していた。父満行は八郎を総領に立て、兄7人を脇地頭とした。
父満行が亡くなり三回忌の後、八郎満胤は上京して3年間宮仕えに精勤し、帝から目代(国司代理)の職を授かった。7人の兄は弟を妬み、八郎に夜討ちをかけて殺害し、屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある蛇食池の中島の蛇塚の岩屋に投げ込んだ。
それから3年後、満胤の怨霊は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。神通自在の身となった八郎は7人の兄を殺し、その一族・妻子・眷属まで生贄に取って殺した。
帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を1年に1回だけにさせた。大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、9月9日に高井の岩屋に生贄を捧げることになった。
それから20年あまりが経ち、上野国甘楽郡尾幡庄の地頭・尾幡権守宗岡がその年の生贄の番に当たった。宗岡には海津姫という16歳の娘がいた。 宗岡は娘との別れを哀しみ、あてどもなくさまよい歩いていた。
その頃、奥州に金を求める使者として、宮内判官宗光という人が都から下向して来た。
宗岡は宗光を自分の邸に迎えて歓待し、様々な遊戯を行った。そして、3日間の酒宴の後に、宮内判官を尾幡姫(海津姫)に引き合わせた。宗光は尾幡姫と夫婦の契りを深く結んだ。
8月になり、尾幡姫が嘆き悲しんでいるので、宗光はその理由を尋ねた。宗岡は尾幡姫が今年の大蛇の生贄に決められていることを話した。
宗光は姫の身代わりになることを申し出た。そして夫婦で持仏堂に籠り、ひたすら法華経を読誦して9月8日になった。
宗光は高井の岩屋の贄棚に上ると、北向きに坐って法華経の読誦を始めた。やがて、石の戸を押し開けて大蛇が恐ろしい姿を現したが、宗光は少しも恐れずに読誦し続けた。
宗光が経を読み終わると、大蛇は首を地面につけて 「あなたの読経を聴聞して執念が消え失せました。今後は生贄を求めません。法華経の功徳で神になることができるので、この国の人々に利益を施しましょう」と言い、岩屋の中に入った。
その夜、震動雷鳴して大雨が降り、大蛇は下村で八郎大明神として顕れた。八郎大明神の本地は薬王菩薩である。
この顛末を帝に奏上したところ、帝は大いに喜び、奥州への使者は別の者を下らせることにして、宗光を上野の国司に任じた。宗光は26歳で中納言中将、31歳で大納言右大将に昇進した。尾幡権守宗岡は目代となった。
大納言右大将(昔の宮内判官宗光)は、多胡郡の鎮守・辛科大明神として顕れた。辛科大明神の本地は文殊菩薩である。
尾幡姫は野粟御前となった。野粟御前の本地は普賢菩薩である。
尾幡権守宗岡夫婦は白鞍大明神になった。この明神には男体と女体がある。白鞍大明神の男体の本地は不動明王、女体の本地は毘沙門天王である。
八郎大明神の父群馬太夫満行神は、群馬郡長野庄に満行権現として顕れた。今の戸榛名である。戸榛名の本地は地蔵菩薩である。
母御前は白雲衣権現として顕れた。白雲衣権現の本地は虚空蔵菩薩である。
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