毛利元就が攻め落とした高杉城址、元就自身が再建した本殿
知波夜比古神社 広島県三次市高杉町383
[住所]広島県三次市高杉町383
[電話]0824-66-1271

知波夜比古神社(ちはやひこじんじゃ)は、広島県三次市高杉町にある神社。「二宮さん」として親しまれている。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳山陽道神 備後国 三谿郡「知波夜比古神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

芸備線の神杉駅の西、県道432号線の近く、馬洗川の支流が北を流れる。備後二の宮神社とも。

創祀年代は不詳。社伝によれば、当社御祭神の日子穗々出見尊である二宮明神は、廻神泉水の四番に天降りした。

その際、尊のヨボシ(烏帽子)が脱げ落ちたので、ヌケヨボシと呼ばれた。次に足留山で一宿し、魚切の鳥帽子掛の岩のところで手を洗った。そのため、手水池という。

廻神郷布久の家でさらに一宿し、翌朝、手水の後、神敕があり、「我は向に見ゆる杉の木の元に鎮座す、此に永く久く鎮座す」と言い、現在地に鎮座したという。

この高杉の一帯は、馬洗川や美波羅川による肥沃な土地を背景として、早くから開発され、中世に入っても、三若の旗返山城に本拠をもつ江田氏の穀倉地として重要視された。

南北朝時代の観応年間(1350年-1352年)ごろ、高杉城(杉山城・祝城・祝要害とも)が築かれ、戦国時代には江田氏の支城として続いたようである。

しかし、尼子晴久勢と大内義長勢が対決した際、天文22年(1553年)7月22日、尼子方であったこの城は大内方の毛利元就の兵に攻め落とされた。

600人以上の戦死者が出る激戦で、城とともに社殿も焼失。当社神職の祝甲斐守父子も討ち死に。ただし、現在に至るまで、当社の境内周囲には城の遺構が残る。

境内に北方から北東にかけては堀が残り、土塁は西方以外、ほとんど境内地をぐるっと囲むようにある。境内は県の史跡に指定されている。

弘治2年(1556年)、毛利元就隆元父子が神威を畏れ、三原の沖底より取り寄せた潮土を敷き、杵き固めた基礎の上に社殿を再興した。

本殿は、入り母屋屋根の日吉造、斗栱、破風にも意匠が凝らしてある。向拝には深く湾曲した海老虹梁がみられる。

拝殿の屋根には瓦を使うなど、仏教建築を連想させ、向拝の作りにも禅宗様式の特徴が見られる。

屋根を銅板葺きにし、その他若干の修理はしたものの、現在も大部分はこの再建時のままだという。この本殿は市の重要文化財に指定されている。

また、御神像は台座の銘によるとこの城が陥落した翌年にあたる天文23年(1554年)6月に三吉致高隆亮父子により、泉州堺から仏師を呼び出し、再造立させたもの。

江戸時代には「二の宮」と称していたが、明治4年(1871年)、式内認定され、明治6年(1873年)には郷社に列した。

なお、備後国二宮はよく分かっていない。福山市神辺町八尋の二宮神社が候補としてはある。また、式内社「知波夜比古神社」の論社は他に、三良坂町に同名の神社がある。

当社の御祭神は、日子穗々出見尊の他、豊玉毘売命邇邇芸命木花佐久夜毘売命鵜草葺不合尊玉依毘売命塩椎神火須勢理命事代主命を祀る。

例祭は11月2日で例大祭。境内社に、厳島神社・伊勢神社・風王社や大仙社・金比羅社・祝社・荒神社がある。

なお、三次郡の式内社「知波夜比売神社」は三次市布野町の知波夜比売神社に比定されているが、当社名とは比古・比売の関係にあるものの、関連は不明。

【ご利益】
諸願成就
知波夜比古神社 広島県三次市高杉町
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