北野天満宮の創建に関わった比良宮とも、神将形立像や観音堂
[住所]滋賀県大津市北比良381
[電話]-
天満神社(てんまんじんじゃ)は、滋賀県大津市北比良にある神社。比良天満神社、比良天満宮とも。琵琶湖西岸ほぼ中央、湖西線の比良駅の北、県道558号線沿い。御朱印の有無は不明。
創立は平安時代の天暦元年(947年)。社伝によれば、天慶3年(940年)に右京に住む多治比文子に、「山城国北野右近馬場に鎮座の地を構えよ」と託宣があった。
しかし、文子は貧しく、社を営むことができず、家辺に瑞籬を設けて斎祀した。現在の文子天満宮である。
しかし天慶9年(946年)、近江国比良宮の禰宜である三和良種の子太郎丸に下記のような神託があった。
その夜、北野に千株の松が生え、また比良村にも生えたので、帰郷して後当社を創立したという。御祭神は菅原道真公、神紋は梅鉢。
近江国比良宮は、現在も当社に隣接する樹下神社のことで、もとは当社も樹下神社の境内社だったようだ。
室町時代の『神道集』「第四十九 北野天神事」には「平野宮」とある。この比良宮・平野宮は当社のことではないか、ともされる。
一説に、延喜16年(916年)2月、筑紫から菅公の霊魂が江州志賀郡比良に移ってきたことを延暦寺権律師が奏聞、一条左大臣雅信が勅使として菅公の神霊を崇め奉った、という。
『近江国輿地志略』巻之三十には、当社について「当社は北野社鎮座より以前と見へたり」と記す。なお、比良宮を高島市鵜川の白鬚神社に比定する説もある。
江戸時代初期の元和8年(1622年)、比良村が南北に分かれた。明治5年(1872年)、樹下神社を南比良村、当社を北比良村の氏神と定め、境内を両分した。
現在も、北側の当社と、南側の樹下神社が入口を別々にして並んで鎮座している。その入口を分けるように、スダジイの巨木がある。
幹周8.5メートル、主幹幹周4.57メートル、樹高15メートル。幹が二つに分断されており、大きく空洞が開き、幹周はそれほど大きくは見えない。
スジダイの左の参道が当社、右の参道が天満宮で、その平行する状況は拝殿・本殿に進んでも変わらず、ふしぎな形態を醸し出している。
当社の本殿は、一間社流造、間口5尺、奥行1間。拝殿は入母屋造、間口2間1尺、奥行2間1尺。境内社に、比良神社がある。
鳥居の前左右には、江戸時代中期の天明4年(1784)銘のある燈籠が建つ。樹木が囲む参道を進むと「えま堂」や社務所、牛像がある。
えま堂には神将形立像が安置されている。像高153.4センチで、大半を針葉樹のヒノキ(檜)かカヤ(榧)の一材から彫成した像。11世紀前半の制作とされる。
本殿の背後には花崗岩製の宝塔がある。南北朝から室町初期の作で、円仁の徒である湛慶が修法をおこなった折に、慣れ来ていた白鹿の墓であると伝える。
当社の例祭は4月15日に近い日曜日。当社から一直線、湖西線の線路を越えて、琵琶湖に向かい1.5キロほど、その湖畔近くに観音堂があり、当社神輿の御旅所。
この観音堂の建物は、寛政10年(1798年)頃の建築で、寄棟造、向拝一間、桟瓦葺で須弥壇に観音像を祀る。
【ご利益】
地域安全、病気平癒、学業・受験合格
【関連記事】
・滋賀県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、滋賀県に鎮座している神社の一覧
[電話]-
天満神社(てんまんじんじゃ)は、滋賀県大津市北比良にある神社。比良天満神社、比良天満宮とも。琵琶湖西岸ほぼ中央、湖西線の比良駅の北、県道558号線沿い。御朱印の有無は不明。
創立は平安時代の天暦元年(947年)。社伝によれば、天慶3年(940年)に右京に住む多治比文子に、「山城国北野右近馬場に鎮座の地を構えよ」と託宣があった。
しかし、文子は貧しく、社を営むことができず、家辺に瑞籬を設けて斎祀した。現在の文子天満宮である。
しかし天慶9年(946年)、近江国比良宮の禰宜である三和良種の子太郎丸に下記のような神託があった。
前に西ノ京の文子と云う者によって示すといえども人人信ぜず、我居せむ処には松の種を植うべし良種はこれにより、西ノ京の文子を呼び、朝日寺の僧最鎮などと力をあわせて社を営んだという。これが現在の北野天満宮である。
その夜、北野に千株の松が生え、また比良村にも生えたので、帰郷して後当社を創立したという。御祭神は菅原道真公、神紋は梅鉢。
近江国比良宮は、現在も当社に隣接する樹下神社のことで、もとは当社も樹下神社の境内社だったようだ。
室町時代の『神道集』「第四十九 北野天神事」には「平野宮」とある。この比良宮・平野宮は当社のことではないか、ともされる。
一説に、延喜16年(916年)2月、筑紫から菅公の霊魂が江州志賀郡比良に移ってきたことを延暦寺権律師が奏聞、一条左大臣雅信が勅使として菅公の神霊を崇め奉った、という。
『近江国輿地志略』巻之三十には、当社について「当社は北野社鎮座より以前と見へたり」と記す。なお、比良宮を高島市鵜川の白鬚神社に比定する説もある。
江戸時代初期の元和8年(1622年)、比良村が南北に分かれた。明治5年(1872年)、樹下神社を南比良村、当社を北比良村の氏神と定め、境内を両分した。
現在も、北側の当社と、南側の樹下神社が入口を別々にして並んで鎮座している。その入口を分けるように、スダジイの巨木がある。
幹周8.5メートル、主幹幹周4.57メートル、樹高15メートル。幹が二つに分断されており、大きく空洞が開き、幹周はそれほど大きくは見えない。
スジダイの左の参道が当社、右の参道が天満宮で、その平行する状況は拝殿・本殿に進んでも変わらず、ふしぎな形態を醸し出している。
当社の本殿は、一間社流造、間口5尺、奥行1間。拝殿は入母屋造、間口2間1尺、奥行2間1尺。境内社に、比良神社がある。
鳥居の前左右には、江戸時代中期の天明4年(1784)銘のある燈籠が建つ。樹木が囲む参道を進むと「えま堂」や社務所、牛像がある。
えま堂には神将形立像が安置されている。像高153.4センチで、大半を針葉樹のヒノキ(檜)かカヤ(榧)の一材から彫成した像。11世紀前半の制作とされる。
本殿の背後には花崗岩製の宝塔がある。南北朝から室町初期の作で、円仁の徒である湛慶が修法をおこなった折に、慣れ来ていた白鹿の墓であると伝える。
当社の例祭は4月15日に近い日曜日。当社から一直線、湖西線の線路を越えて、琵琶湖に向かい1.5キロほど、その湖畔近くに観音堂があり、当社神輿の御旅所。
この観音堂の建物は、寛政10年(1798年)頃の建築で、寄棟造、向拝一間、桟瓦葺で須弥壇に観音像を祀る。
【ご利益】
地域安全、病気平癒、学業・受験合格
【関連記事】
・滋賀県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、滋賀県に鎮座している神社の一覧
コメント