天正期に境野八斗兵衛宗澄らが開拓、八郎神社本殿を移設
稲荷神社 群馬県伊勢崎市八斗島町1406
[住所]群馬県伊勢崎市八斗島町1406
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稲荷神社(いなりじんじゃ)は、群馬県伊勢崎市八斗島町にある神社。近代社格では村社。八斗島稲荷神社とも。利根川東岸。国道462号線から県道18号線に入り、西進。御朱印の有無は不明。

安土桃山時代の天正年間(1573年1592年)の創立と伝わる。当時、那波城主だった大江顕宗が奥州九戸戦争で討死した。

その家臣である境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳の両人が遺志を奉じて、当国利根川の中州の荒野を開拓、その五穀豊穣の守護神として奉斎されたのが当社の起源。

ちなみに、顕宗は天正18年(1590年)の仙北一揆で討死したというのが通説ではある。

吉澄の子である八斗兵衛宗澄は、知徳の子とともにその遺志を継ぎ、今に至る村落の礎を築いた。その後、地名が改められて八斗島と呼ばれるようになった。

当社近くには、通称八斗兵衛さんの石碑とも呼ばれる「境野家由来之碑」がある。

幕末の安政2年(1855年)3月15日、名主五十嵐八兵衛・組頭五十嵐善兵衛・仝境野半右エ門・仝五十嵐茂兵衛・仝黒沢弥右エ門・仝境野三郎右衛門などの名の残る棟札がある。

御祭神は、倉稲魂命大宮姫命・大田命・大己貴命保食命。明治になり、村社に列し、明治43年(1909年)には神饌幣帛料供進社に指定された。

しかし同年8月、大洪水に見舞われ、当時62戸の全村で床上浸水の被害に見舞われた。当社も被害に遭い、県から100円の見舞金が交付された。

当時の世話人、小暮幸次郎・境野誉三・境野吉之助・氏子総代境野長太郎・境野仙三・境野誉三・五十嵐弘次郎・黒沢東馬・社掌荻野美恭・仝牛久保瓶哉がその使い道を相談。

100円のうちの60円により、現在の豊武神社に合祀された下福島の八郎神社の本殿を購入、移築することになった。

この際、本殿移転の夜に大風が吹き、荒れて雷鳴が轟いたと伝えられている。八郎神社の御祭神は、往時は生贄も要求した大蛇だった。

その本殿は木造作りで、桁15尺5寸、杉伐三面作り、破風造・向拝付、茅葺。本殿側面には精緻な彫刻が施されている。

その後、現社名に改称し、遠近にその御神徳が伝わって、豊作の神として著名となったという。例祭は旧暦2月初午の日と、9月29日。

境内社に、鵜戸大権現、大杉神社、蚕影神社、御嶽山神社などがあり、八坂神社・疱瘡神・戸隠大権現などの末社群も祀られている。

社地には本殿・拝殿の他、狐像、一の鳥居、二の鳥居、西の鳥居がある。他に、二十二夜塔、大黒天、庚申塔、供養塔、二十三夜塔などがある。

境内には力石があり、75貫(約281キロ)のものは、明治30年(1897年)ごろ、当所住人の吉野円三が境内でこれを担ぎ、3間(5.4メートル)ほど歩いたと伝えられる。

円三は、明治元年(1868年)、埼玉県児玉郡旭村大字三友に生れ、後に八斗島に移り、舟大工新井団次郎宅に同居していた。

43貫(約161キログラム)のものは、やはり明治30年ごろ、石川伊之吉・境野民治・黒澤安兵衛・森田太郎・境野照吉が、交代で当社の周囲を担ぎ歩いたと伝わる。

【ご利益】
五穀豊穣、厄災除け、家内安全、病気平癒
稲荷神社 群馬県伊勢崎市八斗島町
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