多胡郡総鎮守、江戸期の社殿、御筒粥神事・みそぎ流神事
[住所]群馬県高崎市吉井町神保435
[電話]027-387-3623
辛科神社(からしなじんじゃ)は、群馬県高崎市吉井町神保にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
上信電鉄の西吉井駅の南2キロ、上越自動車道のすぐ北、県道204号線の東、県道71号線の西、北には国道254号線が走る。
社伝によれば、飛鳥時代末期の大宝年間(701年-704年)、朝鮮半島の新羅系渡来人によって創祀された。『上野国神名帳』に「従二位 辛科明神」とある。
御祭神は須佐之男命と御子神の五十猛命。奈良時代初期の和銅4年(711年)3月、片岡郡、緑野郡、甘楽郡のいくつかの里を分割して新たに多胡郡を設置。
多胡郡ができた記念碑が多胡碑として知られる。境内にはそのレプリカがある。当社は多胡郡総鎮守として崇敬された。神号は、甘楽郡から分割された韓級(からしな)郡に由来する。
当社の神紋は抱茗荷。鎌倉時代初期の建久8年(1197年)、源頼朝が懸仏を奉納、大勧進惟宗入道・小勧進清原國包の銘があるという。
社家は神保氏。家紋は○に縦二引。鎌倉時代の『吾妻鏡』承久3年(1221年)の承久の変の際の宇治合戦に上野国の鎌倉幕府御家人として神保与一、与三、太郎の名がある。
南北朝時代の文和3年(1354年)の「足利義詮御教書案」に、多胡郡地頭職として神保太郎左衛門尉の名がある。
『神道集』「第四十八 上野国那波八郎大明神事」に「辛科大明神」と記載されている。群馬八郎満胤を改心させた宮内判官宗光(大納言右大将)で、本地は文殊菩薩。
旧別当は長根村の天台宗常行院だった。江戸時代前期の寛永13年(1636年)、3代将軍徳川家光から社領900坪の免租を受けた。
寛文元年(1661年)、旗本倉橋内匠之助久盛が流造の本殿を再建。貞享元年(1684年)から幕末までの神保領主畑本溝口家の八十朗が畑地800坪を寄進した。
江戸時代中期の享保13年(1728年)、吉田家の宗源宣旨により、正一位辛科大明神の称号が授けられた。
享保15年(1730年)、入母屋造の拝殿が建立され、寛政9年(1791年)、切妻屋根八脚門の随神門が修復された。
幕末の慶応2年(1866年)、神楽殿が建立され、太々神楽の奉納が始まった。明治になり、明治5年(1872年)、郷社嘱託となった。
明治9年(1876年)、当社の太々神楽が白倉神社と笹森稲荷神社に伝承された。当社では廃れたが、白倉神社では今も受け継がれている。
明治24年(1891年)、県内古社として内務省より保存資金50円が下賜され、明治39年(1906年)には郷社に列した。
明治40年(1907年)、大字多胡鎮座の村社辛科神社、無格社井池神社、大字塩鎮座の村社浅間神社、大字高鎮座の村社稲荷神社、無格社琴平神社を合祀した。
平成7年(1995年)、鳥居が再建された。随神門の中には、異国情緒あふれる狛犬が安置されている。
相殿神として、金山比古命・品陀別命・中筒男命・大山津見命・伊邪那美命・建御名方命・大物主命・八坂刀売命・大日霊命・宇迦之御魂命・木花佐久夜毘売命・天児屋根命・市寸嶋比売命・菅原道真公・塩光清を祀る。
塩光清(鹽光清)は羊太夫の家臣である塩野光清のことで、当社が合祀した吉井町塩の鎧神社の御祭神。羊太夫は多胡碑の碑文に刻まれた当地の豪族。
例祭は、春季例大祭が4月9日、秋季例大祭が10月9日。星祭が1月6日、御筒粥神事が1月15日、みそぎ流神事が7月31日。
御筒粥神事は、神主による神事で、その年の豊作物の豊凶を占う。みそぎ流神事は、茅の輪神事のみそぎ流しが当日の夜に行われる。
御供米神事が伝わる。旧暦12月初午日に多胡郡27ヶ村を神官が御幣を立て捧げ廻り、御供米を納めさせるというもの。
明治維新後は秋季例大祭に神馬を奉納するようになり、大東亜戦争後は金納に変化している。また、明治維新後廃絶したが、旧暦2月に御鎮神事が斎行されていた。
社宝として、境内地から出土した古墳時代の須恵器・土師器、直刀一振、鎌倉時代の懸仏一面、室町時代の大黒面一面、江戸時代の辛科大明神縁起一巻、神輿一座、金幣、御神号掛軸一幅、年代不詳の梓弓がある。
社殿の右手の境内社は、左から八王子社、石神社、若宮社、大山咋社、稲荷社、八幡社、南方社。他に、金山社もある。
なお、境内地は社家神保氏の館跡である。単郭城で、西南・西北・北東・東南などに濠・土塁の一部が残存する。市指定史跡。
【ご利益】
厄災除け、家内安全、地域安全、一族・子孫繁栄
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[電話]027-387-3623
辛科神社(からしなじんじゃ)は、群馬県高崎市吉井町神保にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
上信電鉄の西吉井駅の南2キロ、上越自動車道のすぐ北、県道204号線の東、県道71号線の西、北には国道254号線が走る。
社伝によれば、飛鳥時代末期の大宝年間(701年-704年)、朝鮮半島の新羅系渡来人によって創祀された。『上野国神名帳』に「従二位 辛科明神」とある。
御祭神は須佐之男命と御子神の五十猛命。奈良時代初期の和銅4年(711年)3月、片岡郡、緑野郡、甘楽郡のいくつかの里を分割して新たに多胡郡を設置。
多胡郡ができた記念碑が多胡碑として知られる。境内にはそのレプリカがある。当社は多胡郡総鎮守として崇敬された。神号は、甘楽郡から分割された韓級(からしな)郡に由来する。
当社の神紋は抱茗荷。鎌倉時代初期の建久8年(1197年)、源頼朝が懸仏を奉納、大勧進惟宗入道・小勧進清原國包の銘があるという。
社家は神保氏。家紋は○に縦二引。鎌倉時代の『吾妻鏡』承久3年(1221年)の承久の変の際の宇治合戦に上野国の鎌倉幕府御家人として神保与一、与三、太郎の名がある。
南北朝時代の文和3年(1354年)の「足利義詮御教書案」に、多胡郡地頭職として神保太郎左衛門尉の名がある。
『神道集』「第四十八 上野国那波八郎大明神事」に「辛科大明神」と記載されている。群馬八郎満胤を改心させた宮内判官宗光(大納言右大将)で、本地は文殊菩薩。
旧別当は長根村の天台宗常行院だった。江戸時代前期の寛永13年(1636年)、3代将軍徳川家光から社領900坪の免租を受けた。
寛文元年(1661年)、旗本倉橋内匠之助久盛が流造の本殿を再建。貞享元年(1684年)から幕末までの神保領主畑本溝口家の八十朗が畑地800坪を寄進した。
江戸時代中期の享保13年(1728年)、吉田家の宗源宣旨により、正一位辛科大明神の称号が授けられた。
享保15年(1730年)、入母屋造の拝殿が建立され、寛政9年(1791年)、切妻屋根八脚門の随神門が修復された。
幕末の慶応2年(1866年)、神楽殿が建立され、太々神楽の奉納が始まった。明治になり、明治5年(1872年)、郷社嘱託となった。
明治9年(1876年)、当社の太々神楽が白倉神社と笹森稲荷神社に伝承された。当社では廃れたが、白倉神社では今も受け継がれている。
明治24年(1891年)、県内古社として内務省より保存資金50円が下賜され、明治39年(1906年)には郷社に列した。
明治40年(1907年)、大字多胡鎮座の村社辛科神社、無格社井池神社、大字塩鎮座の村社浅間神社、大字高鎮座の村社稲荷神社、無格社琴平神社を合祀した。
平成7年(1995年)、鳥居が再建された。随神門の中には、異国情緒あふれる狛犬が安置されている。
相殿神として、金山比古命・品陀別命・中筒男命・大山津見命・伊邪那美命・建御名方命・大物主命・八坂刀売命・大日霊命・宇迦之御魂命・木花佐久夜毘売命・天児屋根命・市寸嶋比売命・菅原道真公・塩光清を祀る。
塩光清(鹽光清)は羊太夫の家臣である塩野光清のことで、当社が合祀した吉井町塩の鎧神社の御祭神。羊太夫は多胡碑の碑文に刻まれた当地の豪族。
例祭は、春季例大祭が4月9日、秋季例大祭が10月9日。星祭が1月6日、御筒粥神事が1月15日、みそぎ流神事が7月31日。
御筒粥神事は、神主による神事で、その年の豊作物の豊凶を占う。みそぎ流神事は、茅の輪神事のみそぎ流しが当日の夜に行われる。
御供米神事が伝わる。旧暦12月初午日に多胡郡27ヶ村を神官が御幣を立て捧げ廻り、御供米を納めさせるというもの。
明治維新後は秋季例大祭に神馬を奉納するようになり、大東亜戦争後は金納に変化している。また、明治維新後廃絶したが、旧暦2月に御鎮神事が斎行されていた。
社宝として、境内地から出土した古墳時代の須恵器・土師器、直刀一振、鎌倉時代の懸仏一面、室町時代の大黒面一面、江戸時代の辛科大明神縁起一巻、神輿一座、金幣、御神号掛軸一幅、年代不詳の梓弓がある。
社殿の右手の境内社は、左から八王子社、石神社、若宮社、大山咋社、稲荷社、八幡社、南方社。他に、金山社もある。
なお、境内地は社家神保氏の館跡である。単郭城で、西南・西北・北東・東南などに濠・土塁の一部が残存する。市指定史跡。
【ご利益】
厄災除け、家内安全、地域安全、一族・子孫繁栄
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