欽明朝に武烈帝を祀る、古くからの雨乞い祈願の獅子舞
[住所]群馬県北群馬郡榛東村長岡481
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大宮神社(おおみやじんじゃ)は、群馬県北群馬郡榛東村長岡にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

県道26号線を蓮花寺がある交差点で西進、上越新幹線を越える前の交差点を北進。吉岡川の南に鎮座する。

第29代欽明天皇3年(541年)2月8日、小長谷若雀命、つまり第25代武烈天皇を祀ったのが当社の起源だという。当社名から小字名大宮が生まれたという。

雲井坂、西帝、勅使街道、大内冠街道などの地名があり、上毛野氏の一族有馬公の祖である第10代崇神天皇の四世孫である御諸別王の子、賀袁真雅命を祀ったとも。

また、武烈天皇がこの里に行幸した時、その臣である大伴金村の一族、大伴森多が勧請したとも言われている。

この森多が、吉岡、山子田、長岡に多い「森田氏」の祖先であり、この地に住み着き、当社を奉祭してきたのだという。

平安時代前期の嘉祥年間(848年-851年)、兵火があり、社殿が焼失。その社殿が大伴広好の造立と伝えられている。

一説に、室町時代の『神道集』「第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事」にある有御前に比定される場合がある。その場合、石垣明神(石常明神)は常将神社に比定される。

有御前は平常将の奥方にあたると考えられるが、当社には特段女神要素はない。社号から、大宮売神が連想されたものか。

武田信玄の家臣で、箕輪城主である内藤修理介昌豊をはじめ、代々の領主の信仰が厚かったという。桃井郷13ヶ村総鎮守だったという。

安土桃山時代の天正2年(1585年)、当社山林地に関白豊臣秀吉花押の安堵状が与えられた。

棟札によれば、江戸時代前期の貞享4年(1687年)に修理、江戸時代中期の寛政4年(1792年)に新築とある。

明治40年(1907年)、無格社の稲荷神社を合祀、現在までに境内末社は14社あり、このうち菅原社(菅原道真公)、稲荷社(宇迦之御魂神)は明治40年に本社に合併した。

現在の社殿は大正10年(1921年)に再建されたもの。

主祭神は小長谷若雀命、合祀神として宇迦之御魂神・菅原道真公の他、大物主命を祀る。例祭は4月15日、10月9日。

獅子舞が伝わる。創設は中世とも、寛永10年(1633年)から始まったとも。獅子頭は左甚五郎の作、との伝承がある。室町時代の匂いを感じさせる優れたもの。

鹿島流とも伝えられる気品の高い舞として定評がある。また、古くより雨乞いに霊験があるとして知られた。

大正15年(1926年)の大干ばつの際、船尾滝瀑布下で獅子舞が奉納され、それにより大雷雨をもたらし、榛名山一帯を救ったと伝わる。

境内には雨乞い祈願の霊験碑があり、雨乞い成功の喜びが歌に詠まれ、歌碑として残っている。
うぢ子らの 心づくしの 獅子舞を 神もうけてや 雨降らしむ
獅子舞の構成は、近郷のものと同じ一人立ち、三頭の連舞形式でカンカチ、前獅子(男獅子)、中獅子(女獅子)、後獅子(男獅子)、猿田彦、歌掛り二名、笛方十八名、警固多数。

拝殿前には大正14年(1925年)10月建立の狛犬がある。千鳥破風、唐破風付き、入母屋造りの拝殿と本殿鞘堂、本殿からなる。

末社14社のうち、社名が確認できるのは、青祖神社・御嶽山蔵王大権現・古峯神社・愛宕大神・金毘羅大権現・稲荷五福神・聖徳太子碑など。

【ご利益】
祈雨・天候、厄災除け、病魔退散、五穀豊穣
大宮神社 群馬県北群馬郡榛東村長岡
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