泰澄ゆかりの越知山、中世は隆昌、江戸期復興の式内論社
越知神社 福井県丹生郡越前町大谷寺84-1
[住所]福井県丹生郡越前町大谷寺84-1
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越知神社(おちじんじゃ)は、福井県丹生郡越前町大谷寺にある神社。奥宮のある越知山山頂で、雪のない時期であれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「大山御板神社(越前国・丹生郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創祀の年代は不詳。付近からは縄文・弥生の出土品も多く、越知山を聖山とし、古くから越知大神として祭祀が行われていたようだ。

『泰澄和尚伝』によれば、飛鳥時代の白鳳22年(682年)、三神家に生れた泰澄は14才から越知山に登り、修業したという。

大宝2年(702年)、第42代文武天皇より「越の大徳」鎮護国家の法師とされた。奈良時代になり、養老2年(718年)、標高612メートルの山頂に社堂を建て、仏像を祀った。

これにより、「越知山三所大権現」と称えられた。養老6年(722年)、第44代元正天皇は当社に祈願し、病が平癒したことから、神融禅師の号が授けられた。

白山信仰の泰澄は、僧行基と神亀2年(725年)に白山で会い、天平8年(736年)には唐に渡り、沙門玄坊経論5000巻を持ち帰った。

痘瘡流行を治めた功で、天皇より泰澄の号を賜わった。文武・元正・聖武・称徳の各天皇の勅願所だったので、皇室の崇敬は篤かった。

鎌倉時代後期の正応4年(1291年)、幕府により神領域が定められ、社領数百町歩、社家、神人職数百戸、社頭は隆昌し、神事は盛大だったと伝わる。

『越知山古図』に示されている通り、社殿は広壮優美だったが、安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)、兵火に罹り、全山の社殿は焼失した。

慶長年間(1596年-1615年)、越前松平家宗家初代の結城秀康以来、国主の祈願所として復興した。

氏子区域は、丹生郡の糸生・殿下・萩野・越廼・国見・上岬・下岬・志津の8ヶ村。坂井郡一円なども含め、広く崇敬者が分布した。

鎌倉13件、室町39件、安土桃山10件、江戸31件という数多くの古文書類が伝わり、現在は県立図書館に寄託され、県史の重要な資料となっている。

明治初年(1868年)、越知大権現の号を廃し、現社号に改称した。明治18年(1885年)、郷社に列した。

御祭神は伊邪那岐大神伊邪那美大神火産霊神大山祇神。里宮が麓の大谷寺に隣接して鎮座する。

明治43年(1910年)、同村二ツ屋の宮谷神社(天照皇大神八意思兼神少名彦名神)を合祀した。本殿は伊勢湾台風で倒壊したため、昭和52年(1977年)に再建。

5合目付近には、独鈷水がある。泰澄が独鈷で岩を突き刺すと水が湧き出たという伝説があり、岩間から水が湧き出ている。

境内社に、別山山頂の別山神社(天忍穂耳尊)がある。かつての越知山三所権現の聖観音を祀っていた。

その前には白山妙理大権現、日吉山王七社権現、竹生嶋辨財天、天照皇太神、日野山大権現など別山碑と呼ばれる石碑が集められている。

他に、日之宮神社(日宮神社)があり、かつては護摩堂と呼ばれ、今も不動明王を祀る。また、泰澄大師坐像を祀る大師堂や、奥の院(大己貴神)、千体地蔵堂がある。

また、泰澄の弟子だった小沙弥の行場だと伝わる臥行者の旧跡や、織田信長が池に落馬し、馬の鞍が池の中に落ちているという伝説から命名された殿池がある。

なお、式内社「大山御板神社」の他の論社に、福井市片粕町の八幡神社、鯖江市鳥井町の春日神社、越前市の若竹町三ツ口町の神明神社、越前町乙坂の大洗磯崎神社がある。

また、福井市河水町に当社と同名の神社があり、やはり式内社に比定されている。

【ご利益】
リフレッシュ、身体壮健、健康長寿、病気平癒
越知神社 福井県丹生郡越前町大谷寺
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