往時は呉服明神、加賀絹、機織業者の参拝絶えず、養蚕のお守り札
[住所]石川県小松市吉竹町ヘ253
[電話]0761-22-4089 - 多太神社
幡生神社(はたさやじんじゃ)は、石川県小松市吉竹町にある神社。「釜谷さん」と呼ばれている。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「幡生神社(加賀国・能美郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。現在は多太神社の兼務社である。
奈良時代初期の養老2年(718年)、泰澄の創建にかかる、とされる。天平宝字2年(758年)、第47代淳仁天皇が当社に国幣を捧げた。以降360年間、奉幣の儀が行われた。
御祭神は幡生神。平安時代末期の文治5年(1189年)、富樫泰家が深く崇敬して神領を寄進し、社殿や堂塔を再建した。
神仏混交時代のため、慶林坊、済陀坊、玉泉坊などの社僧が神社に奉仕した。富樫氏が一向一揆に亡ぼされ、一揆の争乱が続いたため、一時荒廃した。
江戸時代初期、加賀藩2代藩主前田利常が幡生の総社、または呉服明神として加賀絹の守護神に位置づけ、深く崇敬したので、小松の機織業の参拝が多くなったという。
16ヶ村の総社として栄え、社僧玉泉坊の流れをくむ斉官民によって、養蚕のお守り札が配られたのもこの頃のことだったという。
万治3年(1660年)8月、その利常が造営した記録が残るが、利常はその2年ほど前に死没している。江戸時代後期の文政12年(1829年)には大雪のため倒壊したという。
明治になり、薬師堂から独立、明治15年(1882年)に郷社に昇格し、明治40年(1907年)には稲荷神社(稲倉魂命・大田神)と白山神社(伊弉諾尊・伊弉冊尊・菊理媛神)を合祀。
昭和3年(1928年)、県社に昇格した。昭和45年(1970年)には社殿を改築、これが現社殿である。例祭は9月14日。
【ご利益】
産業振興、技芸・スポーツ上達、五穀豊穣、家内安全
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[電話]0761-22-4089 - 多太神社
幡生神社(はたさやじんじゃ)は、石川県小松市吉竹町にある神社。「釜谷さん」と呼ばれている。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「幡生神社(加賀国・能美郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。現在は多太神社の兼務社である。
奈良時代初期の養老2年(718年)、泰澄の創建にかかる、とされる。天平宝字2年(758年)、第47代淳仁天皇が当社に国幣を捧げた。以降360年間、奉幣の儀が行われた。
御祭神は幡生神。平安時代末期の文治5年(1189年)、富樫泰家が深く崇敬して神領を寄進し、社殿や堂塔を再建した。
神仏混交時代のため、慶林坊、済陀坊、玉泉坊などの社僧が神社に奉仕した。富樫氏が一向一揆に亡ぼされ、一揆の争乱が続いたため、一時荒廃した。
江戸時代初期、加賀藩2代藩主前田利常が幡生の総社、または呉服明神として加賀絹の守護神に位置づけ、深く崇敬したので、小松の機織業の参拝が多くなったという。
16ヶ村の総社として栄え、社僧玉泉坊の流れをくむ斉官民によって、養蚕のお守り札が配られたのもこの頃のことだったという。
万治3年(1660年)8月、その利常が造営した記録が残るが、利常はその2年ほど前に死没している。江戸時代後期の文政12年(1829年)には大雪のため倒壊したという。
明治になり、薬師堂から独立、明治15年(1882年)に郷社に昇格し、明治40年(1907年)には稲荷神社(稲倉魂命・大田神)と白山神社(伊弉諾尊・伊弉冊尊・菊理媛神)を合祀。
昭和3年(1928年)、県社に昇格した。昭和45年(1970年)には社殿を改築、これが現社殿である。例祭は9月14日。
【ご利益】
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