人身御供の伝説、水の神、8月14日に佐伯郷灯籠祭、1月に宮の党
河阿神社 京都府亀岡市薭田野町柿花宮ノ奥8
[住所]京都府亀岡市稗田野町柿花宮ノ奥8
[電話]0771-22-4549

河阿神社(かわくまじんじゃ)は、京都府亀岡市薭田野町柿花宮ノ奥にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

創立年代は不詳。約2000年ほど前に九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族によって創始されたのではないかといわれている。

御神体が蛇骨であったことや、人身御供の伝説があることからも類推される。今も人身御供の長持ちが置かれた台石が残る。

毎年ふもとの家々の中から、わら屋根に白羽の矢がささった家の娘が人身御供として神前に献上されなければならなかったという。

御祭神は豊玉姫命鵜葺草葺不合尊。母子を祀る。鵜葺草葺不合尊の父は山幸彦で、鵜葺草葺不合尊は初代神武天皇の父にあたる。

御祭神2柱が水の神として祀られており、河の源。水上の神として篤い信仰を集める。薭田野神社の五穀の神とも深い関わりがあるという。

平安時代の康平年間(1058年-1065年)、社殿を造営した。南北朝時代末期の元中8年(1391年)、管領細川頼元が篤く当社を崇敬し、地頭吉岡正春に管理をさせた。

安土桃山時代の天正5年(1577年)、明智光秀が亀岡城を築城するため、各地の社寺を取り壊し、築城材を集め尽くした時、当社も壊滅状態にしてしまった。

しかし、慶長元年(1596年)、守護代前田玄以によって復古され、社域8万9260平米が寄進され、免除地として今日の当社の社殿配置がほぼつくり上げられた。

江戸時代前期の元禄8年(1695年)8月吉日、六角石灯籠一基が本殿前に寄進された。江戸時代中期の宝永6年(1709年)3月吉日に社殿の改築を行った。これが現在の社殿。

江戸時代後期の天保6年(1835年)6月、天下泰平・五穀成就・村中安全祈願の永大灯一対が鳥居脇に奉納された。

幕末の文久3年(1863年)5月、永代常夜灯一対が本殿前に寄進された。境内には他に、稲荷神社などがある。例祭は10月23日。1月13日に宮の党がある。

宮座をうかがわせる「宮の党」が引き継がれており、当屋の主が洗米・神酒・鰯・大根・丸餅を決まりに従って調製し、神饌として神前に献じ、氏子の人達の弥栄を祈る。

8月14日は佐伯郷灯籠祭。灯籠祭斎行の薭田野神社・御霊神社若宮神社とともに佐伯郷四社の一社である。

佐伯灯籠は、市内に伝わる、祭礼行列に加わる台灯籠と呼ばれる移動式の舞台で、三味線音楽の一つである義太夫節にあわせて演じる人形浄瑠璃。

特有の操作方法によって人形浄瑠璃を演じるもので、その操作法や上演舞台の構造などが特筆に値する。「佐伯灯籠」として、国の重要無形文化財に指定されている。

鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、朝廷より賜った5基の神燈籠と台燈籠が中心になり、当社に七度半の迎えを遣わすという習わしが伝わる。

豊かな水の恵を求める切なる願いの象徴で、山内川の流れにそって広く並河、宇津根に至る佐伯郷に豊かな水の恵を与え続けている当社に重きを置くことが伺われる。

【ご利益】
五穀豊穣、身体壮健、家内安全
河阿神社 京都府亀岡市薭田野町柿花宮ノ奥
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