風土記記載二社と式内一社の変遷、雷除け、10月に花馬の練り歩き
[住所]島根県出雲市多伎町口田儀1365
[電話]0853-86-2175

多伎藝神社(たきげじんじゃ)は、島根県出雲市多伎町口田儀にある神社。山陰本線の田儀駅から南に5キロ。神紋は二重亀甲に剣花菱。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「多伎芸神社(出雲国・神門郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

社伝によれば、飛鳥朝の慶雲2年(705年)、多伎の小川のほとり、字宮床の地に里人が勧請して創立した。これが、『出雲国風土記』不在神祇官社としての多支々社である。

奈良時代前期の養老4年(720年)、奥田儀に勧請されたのが在神祇官社としての多伎枳社である。後に、多伎枳社は多支々社に合祀された。

ただし、式内社は多伎枳社だとされ、『延喜式』神名帳の頃には主客が入れ替わったと考えられる。

社伝によれば、多支々社は多伎々社と表記され、阿陀加夜努志多伎吉比売命を祀った。また、多伎枳社の御祭神は伊弉那伎尊大迦牟須美命だった。

江戸時代中期の『雲陽誌』では、多伎枳社の記載はなく、多支々社のみが記載され、雷明神と呼ばれて武雷神を祀ったとある。

江戸時代後期の『出雲国式社考』では、多支々社の記載はなく、多伎枳社は多伎藝神社と表記され、多伎藝神社が雷明神と呼ばれて武雷神を祀ったとある。

やはり江戸時代後期の『出雲神社巡拝記』では、多支々社は雷大明神で、わきいかづちの神を祀り、多伎枳社は津野大明神で、あだかやぬしたききひめの命を祀るとある。

現在は、本社が多伎々比売命・伊弉那伎尊・大迦牟須美命を祀り、境内社として、多伎支神社(多伎吉比売命)があるという形になっている。

本社に、伊弉諾尊が黄泉の国から逃げ帰る時、雷神を退散させた雷除けの桃の実である大迦牟須美命を祀り、拝殿の額にも雷大明神とあり、信仰を集めている。

様々な変遷はあったが、多伎々比売命・多伎吉比売命は阿弥加夜怒志多岐喜比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)のことで、多岐喜姫命とも。

当社由緒には出てこないが、御祭神の共通性や、社名の類似から、市内多伎町多岐のやはり式内社である多伎神社との関連もうかがえる。

他の境内社に、金比羅・清武神社や、巳乃神がある。当社の例祭は10月19日で、獅子舞・神楽・花馬(はなんば)が奉納される。

花馬は、町出身・在住の男衆が、折り紙で作った菊の花を一面に飾った傘状の、高さ7メートル、直径5メートル、重さ約700キロの山車状のもの。

当社の記録によれば、最も古いもので、延宝2年(1674年)に「作り花」とある。この「作り花」が現在の花馬と同じものなのか否かは不明だが、祭典は連綿と続いた。

戦中戦後の混乱からか、昭和の一時期途絶えたが、昭和47年(1972年)、住民が田儀花馬保存会を設立して復活させた。

田儀の花神事とも呼ばれ、竹串に1024個の「菊」を飾った花馬を約20人で曳き、当社までの約10キロの道のりを約5時間半かけて練り歩く。

「ヨーイトーナー」の掛け声とともに、横に回転させる練り回しを各所で披露。石段を上って当社に到着すると、観客から拍手と歓声が巻き起こる。

【ご利益】
雷除け、厄災除け、無病息災、病魔退散
多伎藝神社 島根県出雲市多伎町口田儀
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