土の宮、相殿の天王社による長太天王祭、10月鯨船行事
[住所]三重県鈴鹿市北長太旭町1-11-34
[電話]-
飯野神社(いいのじんじゃ)は、三重県鈴鹿市北長太旭町にある神社。田地の中に集落があり、その中に鎮座する。高山寺の後ろ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「飯野神社(伊勢国・河曲郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
社伝によれば、創祀は平安時代末期の保安5年(1124年)2月と伝えられている。そうであれば、『延喜式神名帳』の後であり、式内社足りえない。
「明細帳」及び『吹上藩明細帳』によれば、土宮あるいは現社号で呼ばれ、鎌倉時代末期の正和5年(1316年)、洪水により、社地を移転した。
一方で、戦国時代の永正12年(1515年)以前は社殿を伴なわない祭祀だったともされ、保安5年以前から祭祀は続いていた、とも考えられる。
現存する江戸時代中期の宝永6年(1709年)の棟札には「延喜式内勢州河曲郡北長太村飯野神社寛永六巳丑歳九月一二日」とあり、これが式内社の根拠になっている。
なお、式内社「飯野神社」の論社は他に、市内三日市の当社及び式内同名神社、神戸石橋町の神舘飯野高市本多神社に合祀のものがある。
明治39年(1906年)の「神社明細帳」には、「飯野神社・須賀神社・長太神社合殿」と記載され、これ以後、現社号に改称したものと考えられている。
また一説には幕末までは「土の宮」と称していたが、明治2年(1869年)前後に鎮座地の地名北長太村字飯野里から現社号に改称したともされる。
明治40年(1907年)には9社を合祀している。この中に、やはり伊勢国河曲郡の式内社「大木神社」と「都波岐神社」の論社で、北長太町鎮座の津萩大木神社が含まれていた。
式内社「大木神社」の論社は他に、市内南長太栄町の須伎神社が合祀したものと、市内石薬師町の式内同名神社、林崎町の久々志弥神社の飛地境内社がある。
「都波岐神社」の論社は他に、市内一之宮町の式内同名神社がある。
当社の御祭神は、主祭神が宇迦之御魂神。建速須佐之男命・鵜葺草葺不合命を配祀する。合祀神は以下の神々。
保食神・大山津見神・猿田毘古神・大宜都比売神・速秋津日子神・速秋津比売神・阿夜可志古泥神・伊邪那美命・速玉之男命・黄泉事解男命・菅原神・底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命・多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐津比売命・正哉吾勝勝速日天忍穂耳命・天之菩卑命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命
例祭は7月末から8月初旬にかけて。毎年8月1日に近い土曜日に行われる夏祭りで、長太天王祭とも、北長太の天王祭とも呼ばれる。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)・文禄4年(1595年)に大流行した疫病を鎮めるため、尾張の津島神社から須佐之男命を勧請して始まったとされる。
当日は早朝から夕方まで獅子舞が町内の家を廻り、夜になると四ツ谷・中瀬古・馬場の3地区から華麗な山車が繰り出され、当社境内に練り込む。
3台の山車の屋根には神の依り代である108個の提灯をつけた長さ9メートルの竿「ボンテン」が立てられ、高さ2メートルの山車の上では笛や太鼓に合わせて獅子舞が行われる。
山車が曳き出されるようになったのは寛永17年(1640年)で、車の上で獅子舞が行われるようになったのは明治初頭とされている。
また、毎年10月第2土・日曜日には長太鯨船保存会による「長太鯨船行事」も当社で行われる。昔、伊勢湾に迷い込んだ鯨を銛で仕留めるという古式鯨漁法を模した神事。
捕鯨船に見立てた山車の「天王丸」を、捕鯨上下歌や太鼓に合わせ引き回し、クライマックスでは軸先の張り子の鯨を若衆が仕留めるという伝統行事である。
なお当社の宝物について、『式内社調査報告』によれば、明治12年(1879年)上進の『寶物目録』により、寛永14年(1637年)の棟札一枚の存在が報告されている。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災、商売繁盛

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飯野神社(いいのじんじゃ)は、三重県鈴鹿市北長太旭町にある神社。田地の中に集落があり、その中に鎮座する。高山寺の後ろ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「飯野神社(伊勢国・河曲郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
社伝によれば、創祀は平安時代末期の保安5年(1124年)2月と伝えられている。そうであれば、『延喜式神名帳』の後であり、式内社足りえない。
「明細帳」及び『吹上藩明細帳』によれば、土宮あるいは現社号で呼ばれ、鎌倉時代末期の正和5年(1316年)、洪水により、社地を移転した。
一方で、戦国時代の永正12年(1515年)以前は社殿を伴なわない祭祀だったともされ、保安5年以前から祭祀は続いていた、とも考えられる。
現存する江戸時代中期の宝永6年(1709年)の棟札には「延喜式内勢州河曲郡北長太村飯野神社寛永六巳丑歳九月一二日」とあり、これが式内社の根拠になっている。
なお、式内社「飯野神社」の論社は他に、市内三日市の当社及び式内同名神社、神戸石橋町の神舘飯野高市本多神社に合祀のものがある。
明治39年(1906年)の「神社明細帳」には、「飯野神社・須賀神社・長太神社合殿」と記載され、これ以後、現社号に改称したものと考えられている。
また一説には幕末までは「土の宮」と称していたが、明治2年(1869年)前後に鎮座地の地名北長太村字飯野里から現社号に改称したともされる。
明治40年(1907年)には9社を合祀している。この中に、やはり伊勢国河曲郡の式内社「大木神社」と「都波岐神社」の論社で、北長太町鎮座の津萩大木神社が含まれていた。
式内社「大木神社」の論社は他に、市内南長太栄町の須伎神社が合祀したものと、市内石薬師町の式内同名神社、林崎町の久々志弥神社の飛地境内社がある。
「都波岐神社」の論社は他に、市内一之宮町の式内同名神社がある。
当社の御祭神は、主祭神が宇迦之御魂神。建速須佐之男命・鵜葺草葺不合命を配祀する。合祀神は以下の神々。
保食神・大山津見神・猿田毘古神・大宜都比売神・速秋津日子神・速秋津比売神・阿夜可志古泥神・伊邪那美命・速玉之男命・黄泉事解男命・菅原神・底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命・多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐津比売命・正哉吾勝勝速日天忍穂耳命・天之菩卑命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命
例祭は7月末から8月初旬にかけて。毎年8月1日に近い土曜日に行われる夏祭りで、長太天王祭とも、北長太の天王祭とも呼ばれる。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)・文禄4年(1595年)に大流行した疫病を鎮めるため、尾張の津島神社から須佐之男命を勧請して始まったとされる。
当日は早朝から夕方まで獅子舞が町内の家を廻り、夜になると四ツ谷・中瀬古・馬場の3地区から華麗な山車が繰り出され、当社境内に練り込む。
3台の山車の屋根には神の依り代である108個の提灯をつけた長さ9メートルの竿「ボンテン」が立てられ、高さ2メートルの山車の上では笛や太鼓に合わせて獅子舞が行われる。
山車が曳き出されるようになったのは寛永17年(1640年)で、車の上で獅子舞が行われるようになったのは明治初頭とされている。
また、毎年10月第2土・日曜日には長太鯨船保存会による「長太鯨船行事」も当社で行われる。昔、伊勢湾に迷い込んだ鯨を銛で仕留めるという古式鯨漁法を模した神事。
捕鯨船に見立てた山車の「天王丸」を、捕鯨上下歌や太鼓に合わせ引き回し、クライマックスでは軸先の張り子の鯨を若衆が仕留めるという伝統行事である。
なお当社の宝物について、『式内社調査報告』によれば、明治12年(1879年)上進の『寶物目録』により、寛永14年(1637年)の棟札一枚の存在が報告されている。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災、商売繁盛

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