奈良初期創立の春日四神、赤浜八幡神社と一時期主客逆転
[住所]石川県金沢市東蚊爪町ホ100-1
[電話]076-238-2068

須岐神社(すきじんじゃ)は、石川県金沢市東蚊爪町にある神社。『延喜式神名帳』にある「須岐神社(加賀国・加賀郡)」に比定される式内社(小社)。参拝すれば、御朱印を頂ける。

奈良時代初期、第44代元正天皇の霊亀2年(716年)、浅野川河口付近で右岸側の地に創建されたと伝えられている。

聖武天皇の天平元年(729年)、粛慎・刀伊らが再々侵略しようとしたため、当地に八幡神を分祀、当社境内に奉斎し、前線基地とした。これが赤浜八幡神社である。

『延喜式神名帳』を前後して、主客逆転したようで、赤浜八幡神社として知られるようになったらしく、鎌倉時代には、幕府より赤浜八幡神社に対して社領が寄進された。

当社神職は、長江須賀麻呂を初代として長江姓で19代続いた。長江須賀麻呂は、室町時代の長享2年(1488年)、一向一揆により死亡した。

以後、歴代神主は、京都の神道管領長上の吉田神社宮司兼任の卜部氏発行の神道裁許状を申請する際に、須岐神社・赤浜八幡神社両社神主として申請していた。

豪族の高木氏(高桑)五郎が当社の赤浜八幡神社を祈願所として、更に社領を寄進、以後、赤浜八幡神社の崇拝者が増加して、当社本体が衰微傾向となった。

神主の呼び名も、いつの間にか赤浜神主と呼ばれるようになり、江戸時代には、金沢の町へ出開帳を行い、寄進を求める時にも、赤浜神主という呼称で行った。

江戸時代初期の元和3年(1608年)、大洪水が発生して、境内地が浸水、一年中水が引かず、加賀藩の寺社奉行所に移転の要請をして社地を求めた。

そこで、20丁南の地に境内地2000坪・神主宅地200坪・墓地30坪・河原神事浜用地として10坪の社地を拝領して社殿を造営、移転・遷座をした。

また、口伝によれば、「神饌田として正月田・三月田・六月田・九月田」と当社の祭典時の費用捻出としての田畑があったと伝える。

かつては社領も多くあったが、度重なる洪水被害によって、社殿修復工事費を捻出しなければならず、社領も神饌田のみとなってしまった。

境内で奉納相撲が行われた際には、境内に生い茂った孟宗竹によじ登って相撲見物しなければならないほどの盛況だったと伝えられている。

その後、神主宅地は現在地近くに移り、横の土地に遥拝所を建てて祭典を奉仕していたため、本社・境内地の管理が行き届かなくなり、衰微。

明治になり、式内社尊重の風潮の中、当時の神主長江(齋藤)廣居が両社を合併して現社号に復し、鎮座地を現在地に定めた。

もともと遥拝所だったものを拝殿とし、本殿は浅野川右岸の畔で、ナカエ用水との間に建設、両殿を繋ぎ現在の社殿様式とした。

その後、後継者が絶えたので、親戚一同協議の上で宮司職が本嶋家に委ねられた。氏子区域は、大浦町・東蚊爪町・湊1-4丁目。

御祭神は、鹿島坐健御賀豆智命香取坐伊波比主命(経津主命)・枚岡坐天児屋根命・比売大神の春日四神。

当地には市無形民俗文化財に指定されている「奴行列」と「加賀獅子舞」が伝わる。現在は東蚊爪町祭保存会が管理している。当社の秋祭りでも奉納される。

なお、宮城県黒川郡大衡村にも当社と同名の神社があり、陸奥国黒川郡の式内社「須伎神社」の論社である。

【ご利益】
武運長久・勝運、学業・受験合格、地域安全
須岐神社 石川県金沢市東蚊爪町
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