「スキ」韓鋤神社、また赤崎大明神とも、藩主が平癒祈願
須岐神社 宮城県黒川郡大衡村駒場字宮前4
[住所]宮城県黒川郡大衡村駒場下宮前4
[電話]022-345-1395

須岐神社(すきじんじゃ)は、宮城県黒川郡大衡村駒場下宮前にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「須伎神社(陸奥国・黒川郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創祀年代は不詳。もとは西方の宮高森上に鎮座した。式内社は、奈良時代後期に築城された多賀城の近くに陸奥国総社とされる陸奥総社宮に奥州百座の一座として祀られている。

当社からそれほど遠くない富谷に行神社が鎮座している。当社を「スキ」とし、行神社を「ユキ」と読み、「ユキ」と「スキ」の組み合わせて考える説がある。

天皇の即位の際に執行される大嘗祭では、悠紀(ユキ)殿と主基(スキ)殿が設営され、京都以東以南の悠紀地方と、以西以北の主基地方の両地方の斎田でとれた新穀を献上する。

行神社は南に、当社は北にあたる。そのためか、往時は韓鋤神社とも呼ばれたという。ともかく、鎮座地の駒場は、源頼朝の奥州征伐のおり、当地で馬を休めたことによる。

鎌倉時代初期の建久2年(1191年)、地頭児玉弥太郎が現在地に遷座、赤崎大明神と称え、椚千本を植え、神境とした。里人はこれを千本椚と称した。

あるいは、弥太郎の後裔である児玉右近が椚千本を植栽したとも。中世、支配領主たちの崇敬が篤かったと伝わる。

江戸時代中期の正徳3年(1713年)、青面金剛童子奉庚申供養碑が建立され、享保3年(1718年)には雲泉寺8世住職鐘銘の梵鐘が奉納された。

この梵鐘は太平洋戦争時に供出された。また、歴代領主からも庇護され、寛保元年(1741年)銘の絵馬などが奉納された。

また、延享3年(1746年)、藩主伊達宗村は疾病平癒祈願のため、茂庭求馬が社参したといわれる。江戸時代後期の文化10年(1813年)には申子碑が建立された。

明治初頭に発令された神仏分離令により、仏式が廃され、現社号に復し、明治5年(1872年)に郷社に列し、明治43年(1910年)、神撰幣帛料供進社に指定された。

社殿は宝暦10年(1760年)に神主斎藤能登守の時に新築・造営されたもので、流造、こけら葺きで小屋組柱露出吹放の覆屋(雨屋)がかけられている。

拝殿は入母屋造萱葺、長床は寄棟造萱葺で大正13年(1924年)に再建された。その後、平成3年(1991年)、天皇即位御大典を祝し、拝殿と長床は新しく建替えられた。

平成13年(2001年)、亨保3年奉納され、大東亜戦争に際して供出された梵鐘を再鋳、氏子崇敬者により併せて鐘楼が建立された。

御祭神は素盞嗚尊。例祭は5月3日で、子供神輿が渡御する。

なお、式内社「須伎神社」の論社は他に、大和町宮床の鶴ケ峯八幡宮の境内社である鳴上賀茂明神宮、同八幡宮合祀の賀茂明神がある。

また、伊勢国河曲郡にも同名の式内社がある。現在、三重県鈴鹿市南長太栄町の須伎神社に比定されている。

当社と同名の神社が、石川県金沢市東蚊爪町にある。加賀国加賀郡の式内社「須岐神社」に比定されている。

【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災、五穀豊穣
須岐神社 宮城県黒川郡大衡村駒場
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