子宝・蟻の宮と蚕の宮、水占いと丹波布・シカ革のお守り
[住所]兵庫県丹波市青垣町東芦田2283
[電話]0795-87-0124
高座神社(たかくらじんじゃ)は、兵庫県丹波市青垣町東芦田にある神社。有名な西天目瑞巌山高源寺の東方約7キロほどの地。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「高座神社(丹波国・氷上郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
第14代仲哀天皇が中国地方の穴門へ行幸の前年、この地方の村民が流行病で難渋しているのを心配し、武内宿禰を供として見舞いに訪れ、当社に祈願したと伝わる。
これをもって当社の創立とされるが、仲哀天皇が祈願したのには理由があるはずで、それ以前から祭祀は行われていたことが考えられる。
平安時代前期の弘仁4年(813年)、嵯峨天皇より勅額を下賜された。『延喜式神名帳』に記載がある。なお、他の論社に、山南町の式内及び当社と同名の神社がある。
当社の御祭神は、大日靈尊(農業の神)・天児屋根命(学問・歌・芸能の神)・経津主命(養蚕の神)・武甕槌命(剣道・交通安全の神)・仲哀天皇(慈愛の神)。
一ノ社は鹿島大明神、二ノ社は香取大明神、三ノ社に仲哀天皇、四ノ社に春日大明神、五ノ社に大神宮の五社を祀り、高座五座、高座五社明神とも。
安土桃山時代の慶長6年(1601年)、由良荘と呼ばれた現在の氷上町の、三木城主長治の伯父で、重棟の子である別所豊後守吉治により、神燈田の寄進を受け。
以前は高座谷に鎮座したが、江戸時代前期の寛文10年(1670年)、現在地に遷座した。江戸時代中期、柏原藩主織田家からも崇敬され、藩主より自筆の扁額が奉納された。
神宮寺として松音寺があったが、江戸時代後期の弘化3年(1846年)、別当観蓮が発狂して失火、古記・宝剣・勅額などを焼失した。
現在の本殿は間口2間半・奥行き1間余り、四方に廻縁がある大宮ツマ造りだという。
別名を「蟻の宮」という。昔、夏に強烈な旱魃の年、村民が多数当社に参拝し、七昼夜、雨乞いの祈願を行った。
7日目の夕方、村人の1人が大きな蟻が当社殿から這い出て、列を作っているのを見つけた。蟻の列をたどっていくと、蟻が窪みの所で消えていなくなっていた。
蟻が消えた窪みを掘り返してみると、清水がコンコンと湧き出てきた。村民は驚き、感激して、溝を通し、田に水をたたえ、枯れかけた稲は青く蘇った。
この年、芦田の谷では豊作の年を迎えることができた。今日でも水路に水神の祠を作り、祭祀が続けられている。
また、蟻は一度にたくさんの子を産み、子孫を繁栄していくということから、子宝に恵まれる子授けの神としても崇敬された。
境内社に馬鳴神社(めみょうじんじゃ)があり、「蚕の宮」と呼ばれる。昔、「養蚕を始めよ。守護する神は保食神なり」と霊夢があり、当地で広く養蚕が営まれるようになった。
馬鳴は中国の伝説に由来する。長者の飼っていた馬が長者の娘を好きになり、怒った長者がこの馬を殺して皮を剥ぎ、枝に吊るした。
その皮が娘を包みこんで天に昇ってしまった。この馬と娘の霊が蚕となって、天から降ってきたという物語の蚕神を指す。
石大鳥居の横にある「蟻の宮と蚕の宮」石碑は、秦氏と婚姻を結んでその技術を伝授され、養蚕と土木工事をこの地に広めた阿利氏を称えたものではないかと伝わる。
現在では当社の本社が「蟻の宮」、境内社が「蚕の宮」として、親しまれている。
当社には「盃状穴」が残ってる。盃状穴とは先人が悩み、苦しい時、当社に参拝し、祈りを捧げ、さらに「願」を掛けた。
その際、手水鉢や灯篭の台石や階段の踏石などにノミで穴をあけ、祈った、あるいはその穴に油を注ぎ祈ったとも伝わる。
例祭は10月第2日曜日。神輿の巡幸がある。10月1日には、当社の旧地である現在の紙谷の地で奥の院例祭が行われる。
4月には鎮花祭があり、神前に奉られた「紙」に参拝者がそれぞれ病名などを記載し、川に流して心身を祓い清める行事が執行されている。
境内社に、日清・日露戦争より太平洋戦争までの当地の英霊を祀るの芳魂神社(例祭:10月5日)がある。
境内の社務所前には寛延2年(1749年)に権左衛門が奉納した直径約80センチの舟型の手水鉢がある。
これを活用して、水占いが行われる。正月に設置した巨大おみくじの筒からくじを引き、水に浮かべると、恋愛、商売、学問などの項目ごとに説明の文字が浮かび上がる仕組み。
平成29年(2018年)1月より、国選択無形文化財「丹波布」にシカ革をあしらったお守りを授与し始めている。
地元女性たちの手作りで、独特のしま模様の丹波布と、白くなめしたシカ革が柔らかな風合いを織り成しているとして好評。
裏山は神山と呼ばれ、この山より出た土器によって、1400年前から続く聖なる地であることが分かったという。
この高座山とも呼ばれる神山から、吼子尾山に続く丘陵尾根には 高座神社裏古墳のマウンドが数基残されているという。
なお、当社はやはり式内社である市内氷上町香良の加和良神社などを兼務している。
【ご利益】
安産・子育て、病気平癒、事業成功、産業振興(公式HP)
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・兵庫県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、兵庫県に鎮座している神社の一覧
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高座神社(たかくらじんじゃ)は、兵庫県丹波市青垣町東芦田にある神社。有名な西天目瑞巌山高源寺の東方約7キロほどの地。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「高座神社(丹波国・氷上郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
第14代仲哀天皇が中国地方の穴門へ行幸の前年、この地方の村民が流行病で難渋しているのを心配し、武内宿禰を供として見舞いに訪れ、当社に祈願したと伝わる。
これをもって当社の創立とされるが、仲哀天皇が祈願したのには理由があるはずで、それ以前から祭祀は行われていたことが考えられる。
平安時代前期の弘仁4年(813年)、嵯峨天皇より勅額を下賜された。『延喜式神名帳』に記載がある。なお、他の論社に、山南町の式内及び当社と同名の神社がある。
当社の御祭神は、大日靈尊(農業の神)・天児屋根命(学問・歌・芸能の神)・経津主命(養蚕の神)・武甕槌命(剣道・交通安全の神)・仲哀天皇(慈愛の神)。
一ノ社は鹿島大明神、二ノ社は香取大明神、三ノ社に仲哀天皇、四ノ社に春日大明神、五ノ社に大神宮の五社を祀り、高座五座、高座五社明神とも。
安土桃山時代の慶長6年(1601年)、由良荘と呼ばれた現在の氷上町の、三木城主長治の伯父で、重棟の子である別所豊後守吉治により、神燈田の寄進を受け。
以前は高座谷に鎮座したが、江戸時代前期の寛文10年(1670年)、現在地に遷座した。江戸時代中期、柏原藩主織田家からも崇敬され、藩主より自筆の扁額が奉納された。
神宮寺として松音寺があったが、江戸時代後期の弘化3年(1846年)、別当観蓮が発狂して失火、古記・宝剣・勅額などを焼失した。
現在の本殿は間口2間半・奥行き1間余り、四方に廻縁がある大宮ツマ造りだという。
別名を「蟻の宮」という。昔、夏に強烈な旱魃の年、村民が多数当社に参拝し、七昼夜、雨乞いの祈願を行った。
7日目の夕方、村人の1人が大きな蟻が当社殿から這い出て、列を作っているのを見つけた。蟻の列をたどっていくと、蟻が窪みの所で消えていなくなっていた。
蟻が消えた窪みを掘り返してみると、清水がコンコンと湧き出てきた。村民は驚き、感激して、溝を通し、田に水をたたえ、枯れかけた稲は青く蘇った。
この年、芦田の谷では豊作の年を迎えることができた。今日でも水路に水神の祠を作り、祭祀が続けられている。
また、蟻は一度にたくさんの子を産み、子孫を繁栄していくということから、子宝に恵まれる子授けの神としても崇敬された。
境内社に馬鳴神社(めみょうじんじゃ)があり、「蚕の宮」と呼ばれる。昔、「養蚕を始めよ。守護する神は保食神なり」と霊夢があり、当地で広く養蚕が営まれるようになった。
馬鳴は中国の伝説に由来する。長者の飼っていた馬が長者の娘を好きになり、怒った長者がこの馬を殺して皮を剥ぎ、枝に吊るした。
その皮が娘を包みこんで天に昇ってしまった。この馬と娘の霊が蚕となって、天から降ってきたという物語の蚕神を指す。
石大鳥居の横にある「蟻の宮と蚕の宮」石碑は、秦氏と婚姻を結んでその技術を伝授され、養蚕と土木工事をこの地に広めた阿利氏を称えたものではないかと伝わる。
現在では当社の本社が「蟻の宮」、境内社が「蚕の宮」として、親しまれている。
当社には「盃状穴」が残ってる。盃状穴とは先人が悩み、苦しい時、当社に参拝し、祈りを捧げ、さらに「願」を掛けた。
その際、手水鉢や灯篭の台石や階段の踏石などにノミで穴をあけ、祈った、あるいはその穴に油を注ぎ祈ったとも伝わる。
例祭は10月第2日曜日。神輿の巡幸がある。10月1日には、当社の旧地である現在の紙谷の地で奥の院例祭が行われる。
4月には鎮花祭があり、神前に奉られた「紙」に参拝者がそれぞれ病名などを記載し、川に流して心身を祓い清める行事が執行されている。
境内社に、日清・日露戦争より太平洋戦争までの当地の英霊を祀るの芳魂神社(例祭:10月5日)がある。
境内の社務所前には寛延2年(1749年)に権左衛門が奉納した直径約80センチの舟型の手水鉢がある。
これを活用して、水占いが行われる。正月に設置した巨大おみくじの筒からくじを引き、水に浮かべると、恋愛、商売、学問などの項目ごとに説明の文字が浮かび上がる仕組み。
平成29年(2018年)1月より、国選択無形文化財「丹波布」にシカ革をあしらったお守りを授与し始めている。
地元女性たちの手作りで、独特のしま模様の丹波布と、白くなめしたシカ革が柔らかな風合いを織り成しているとして好評。
裏山は神山と呼ばれ、この山より出た土器によって、1400年前から続く聖なる地であることが分かったという。
この高座山とも呼ばれる神山から、吼子尾山に続く丘陵尾根には 高座神社裏古墳のマウンドが数基残されているという。
なお、当社はやはり式内社である市内氷上町香良の加和良神社などを兼務している。
【ご利益】
安産・子育て、病気平癒、事業成功、産業振興(公式HP)
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