鈴鹿御前と坂上田村麻呂、交通要衝を守護する鈴鹿大明神
[住所]三重県亀山市関町坂下624
[電話]-

片山神社(かたやまじんじゃ)は、三重県亀山市関町坂下にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「片山神社(伊勢国・鈴鹿郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

滋賀県と三重県の県境にあたる国道1号の鈴鹿トンネル上に位置し、伊勢湾へと流れる鈴鹿川や琵琶湖へと流れる田村川を眺望できる鈴鹿峠にある。

付近は豊かな水に恵まれ、伊勢の神宮(伊勢神宮)へと向かう斎王が逗留して禊を行った鈴鹿禊の地で、後に巫覡の徒が祓えを行う神聖な地ともなった。

鈴鹿山脈は伊勢国と近江国の国境に位置していたことから、古代から交通の要衝であった。そのため鈴鹿峠は鬼や盗賊に関する伝説が多く残されている。

平安時代末期には『宝物集』に鈴鹿山の立烏帽子の名前が見られ、鈴鹿に伝えられる昔話では、坂上田村麻呂が立烏帽子討伐を命じられた。

しかし二人は夫婦となり、二人が亡くなった後に鈴鹿峠の里の人々が立烏帽子を鈴鹿御前として祀り、田村麻呂を田村堂に祀ったという。

奈良絵本『すずか』には、鈴鹿の立烏帽子は鈴鹿の権現と言われ、東海道の守護神となって往来の旅人の身に代わって守ったという。

付近では祭祀用の小皿も多く出土していることから、鈴鹿峠を往来する旅人によって旅の安全を祈願して手向けられた峠神祭祀の遺跡と推定されている。

道祖神の性格を持っていたようだ。京都祇園祭の山鉾「鈴鹿山」では鈴鹿権現(瀬織津姫尊)を祀り、金の烏帽子に大長刀を持つ女人の姿であらわしている。

鈴鹿峠の鏡石(鏡岩)は磐座として、京と丹波の境に位置する愛宕山の勝軍地蔵菩薩同様に、田村将軍を祀ることで将軍地蔵とみなされた。

また、鈴鹿権現と一対になった塞の神信仰が古くから存在した。

江戸時代に刊行された『伊勢参宮名所図会』の「鈴鹿山」には、鈴鹿峠の鏡岩を挟んで伊勢側に鈴鹿神社が、近江側に田村明神が描かれている。

「鈴鹿神社には片山神社、縣主の神社といった別名があった」と解説文に書かれており、当社のこと。

田村神社旧跡と彫られた石柱には明治40年(1907年)に片山神社に合祀されたとある。滋賀県甲賀市に有名な田村神社があるが、別の神社である。

創建年代は不詳。もとは三子山に鎮座したが、たびたびの水害や火災のため、鎌倉時代の永仁5年(1297年)、現在地に遷座した。

『神道集』の「児持山大明神の事」に「加若殿の父母も神道の法を授かり、伊賀国三宮の鈴鹿大明神と成った」とある。

伊賀国三宮であれば、伊賀市土橋の波多岐神社だが、波多岐神社が鈴鹿大明神といわれたことなく、鈴鹿大明神、鈴鹿神社と呼ばれたのは当社。

これは伊賀国ではなく、伊勢国の誤記ではないかとの指摘がある。ただし、当社は特段、伊勢国三宮とは呼ばれない。

室町時代には「鈴鹿姫と申す小社」と書かれ、他にもいろいろな旅日記にも記載された。

安土桃山時代の天正17年(1573年)、領主の関盛信が社領を寄進。江戸時代前期の寛永14年(1637年)、本田俊次がやはり社領を寄進した。

鈴鹿大明神・鈴鹿御前・鈴鹿権現・鈴鹿神社などと呼ばれたが、明治になり現社号に改称。明治4年(1871年)5月、村社に列した。

御祭神は、倭比売命。瀬織津比売神・気吹戸主神・速佐須良比売神・坂上田村麿・天照大神建速須佐之男命市杵島姫命大山津見神を配祀する。

例祭は4月12日。平成13年(2002年)に放火により瓦解した。なかなか再建が進まず、廃墟と化した。

境内には「鈴鹿流薙刀術発生之地」碑や孝子万吉顕彰碑が建てられている。鈴鹿峠中腹の木立に包まれ、四季折々の趣があり、特に秋の紅葉の美しさに定評がある。

なお、式内社「片山神社」の論社は他に、市内関町木崎の関神社に合祀された同名の神社がある。

【ご利益】
旅行・交通安全、事業成功、水害除け、火防
片山神社 三重県亀山市関町坂下
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