日本武尊お手植え樹齢1400年の神代杉、吾妻七社明神の一つ
[住所]群馬県吾妻郡東吾妻町矢倉899
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鳥頭神社(とっとうじんじゃ)は、群馬県吾妻郡東吾妻町矢倉にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

創建年代は不詳。一説に、鎌倉時代初期の建久年間(1190年-1199年)の建立とも。古来、武将、郷民の信仰が厚く、鎌倉時代末期の元享年間(1321年)、岩櫃城主の吾妻太郎行盛が社殿を改修した。

南北朝時代の延文3年(1351年)に編集された『神道集』の「児持山大明神の事」に登場する突東宮に比定される。児持山七社、あるいは吾妻七社明神の一つ。

戦国時代末期には岩櫃城主斉藤氏の庇護を受け、永禄6年(1578年)10月の斉藤氏滅亡後、永禄9年(1581年)には海野幸光と輝幸は武田信玄の吾妻領の郡代となった。

安土桃山時代の天正6年(1578年)、海野長門守幸光は武田勝頼に忠誠を顕すため、鰐口を奉納したが、その後盗難に遭い、現存しない。

天正10年(1582年)、真田昌幸より8貫700文の寄進を受け、社殿を修復、天正18年(1590年)8月には真田信幸が沼田入部に際し、3貫500文を寄進した。

江戸時代になり、沼田真氏改易の後、貞享4年(1683年)、検地では境内1反5畝あまり、森1反とある。

元禄7年(1694年)11月、京都卜部兼連より正一位鳥頭大明神の宣旨を賜った。宝暦11年(1761年)、本社の建替が着工し、明和元年(1764年)9月完成した。

現在の拝殿は、江戸時代後期の天保年間(1831年-1845年)の改築だという。本殿とともに、向拝下の鳳凰、目貫の龍、木鼻の狛犬と象、手挟の牡丹などの彫刻が見事。

御祭神は、主祭神が大穴牟遅神宇迦之御魂神。相殿に明治10年(1877年)7月に合併した倭健命建御名方命を祀る。

明治40年(1907年)8月、境内末社などを合祀した。合祀神として、大山津見命を祀る。明治45年(1912年)7月19日、神饌幣帛料供進社に指定された。

例祭は11月吉日で秋季大祭。4月吉日には春季大祭があり、7月吉日には茅の輪祭が行われる。

社頭の神代杉が有名。日本武尊が東征の際にお手植えしたものを伝わる。樹齢1400年。周囲9.75メートルあまり。

江戸時代中期の寛保2年(1742年)、草津への旅人が一夜をこの大杉の虚で暖を焚き、その失火によりこの神代杉は半枯れの状態になった。

その後天明3年(1783年)、浅間山噴火による熱泥流が、再びこの神代杉を厄火に包んだ。時の龍徳寺住職円心和尚は、その消失の危機を憂慮。

神代杉を後世に残すべく、余燼くすぶる中、自らの危険を顧みず、10メートルの高所から切倒して、神代杉の命脈を救ったという。

その後も代々の氏子たちにより修復が重ねられ、虚内にある杉は約200年前に苦労の末に根付いた木で、一名親子杉とも呼ばれるようになった。

末社として、援田毘古大神がある。神武天皇遥拝所や、力石が安置されている。

なお、町内には三島にも当社と同名の神社がある。

【ご利益】
五穀豊穣、病気平癒、健康長寿、旅行・交通安全
鳥頭神社 群馬県吾妻郡東吾妻町矢倉
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