和利宮、吾妻七社明神の一つ、拝殿彫刻や献額・絵馬・算額
[住所]群馬県吾妻郡中之条町横尾1354
[電話]0279-75-1498

吾妻神社(あがつまじんじゃ)は、群馬県吾妻郡中之条町横尾にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

吾妻線の中之条駅から北東1.5キロほど、日本ロマンチック街道、国道145号線と名久田川に挟まれた場所に鎮座する。

145号線側にも鳥居があり、境内の横から入る事ができるが、145号線から東に入ると南向きに、境内入口の赤い鳥居が立っている。

杉木立に囲まれた境内に立つ社殿は、拝殿が銅板葺き入母屋造妻入で、後方の本殿が流造。拝殿には彩色された龍の彫刻が施されている。小林源太郎と父源八の作。

創祀年代は不詳。一説には奈良時代初期の和銅年間(708年-715年)の創祀とも伝えられるが、江戸時代後期の文化年間(1804年-1818年)の火災で社殿・古記録が焼失した。

古来、国司、武将の尊崇を集め、吾妻郡全郡に及び崇敬され、吾妻大社とも称した。もとは現社地の西南300メートルほどの御洗水山頂に鎮座していた。

現在地には拝殿のみがあった遥拝所だったが、参拝が不便だったため、本殿を現在地に遷座した。当地を支配していた塩谷氏が篤く信仰していた戦国時代の弘治2年(1556年)のこと。

なお、旧地に関しては、当社西北、標高789メートルの霊峰嵩山(たけやま)の南麓の地だとも。現在は親都神社が鎮座してる。

通称は、和利宮(わりのみや)。もとは和流宮で、唐流に対する大和流の意味で、そのため当社の主祭神は大穴牟遅命だという。

安土桃山時代の天正18年(1590年)の古記録には割宮とあり、江戸時代前期の貞享3年(1686年)の古記録には和利宮とある。

ただし、和利宮の語源は、和利嶽(わりのたけ)と呼ばれた嵩山との関連深さによるという説もある。和理大明神とも。

『神道集』の「児持山大明神の事」には、児持山大明神の縁起が記されており、当社は、児持御前(児持山大明神)の夫である加若次郎和理が神となったものとある。

児持山七社、あるいは吾妻七社明神と称される神社の一つ。

火災の直前、文化4年(1807年)4月1日に社殿が造営された。棟梁は上洲群馬郡元総社村出雲、門弟は庄太夫・𠀋左ヱ門。

文化9年(1812年)4月19日、先述の火災があり、造営5年にして焼失したことになる。文政4年(1821年)、再建された。

明治維新後、村社6社、無格社18社、境内末社127社、計151社を合祀し、現社号に改称、昭和3年(1928年)には郷社に列した。

御祭神は、主祭神が大穴牟遲神。151社合祀により、祭神不詳26座以外で、下記の神々が合祀されている。

菅原道真大山祇命火産霊命速須佐之男命天照皇大神・大日霊命・軻遇突知命・豊宇気姫命・豊受大神・宇気母智神宇迦之御魂神大物主命日本武尊埴山比売命市杵嶋姫命・別雷神・速玉男命・伊弉冉命・事解男命・建御名方命・八坂刀売命・経津主命天之御中主尊木花開邪姫命橘姫命武甕槌命・麓山祇命

この中には、無格社で吾妻郡高山村尻高に鎮座していた山代神社(大山祇命)が含まれている。この山代神社も、吾妻七社明神の一つ。

拝殿をはじめ、境内の献額に、天保9年(1838年)の絵馬・文政6年(1823年)の句額・明治11年(1878年)の算額があり、町の重要文化財に指定されている。

他に境内には、参集殿・神楽殿があり、石祠の末社がいくつか祀られ、町重文篁庵(高橋景作)追遠碑などの石碑や、忠魂碑がある。

【ご利益】
リフレッシュ、病気平癒、縁結び
吾妻神社 群馬県吾妻郡中之条町横尾
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