江戸前期に治兵衛が開拓した新田の鎮守として勧請、4年ごとの大祭
[住所]東京都江東区北砂3-21-11
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治兵衛稲荷神社(じへいいなりじんじゃ)は、東京都江東区北砂にある神社。御朱印の有無は不明。

小名木川小学校の隣にあり、稲荷通りという片田舎風の商店街に面して鎮座する。瓦葺の屋根の社殿で、何か仏教風の佇まい。

小名木川(おなぎがわ)は、江戸初期、徳川家康が行徳の塩の搬入路として開鑿させた運河。隅田川から旧中川まで東西に区内を横断している長さ4640メートルの一級河川。

当時の海岸線で、 江戸の発展で多数の住民が流入し、米・塩などの生活必需品をはじめ、多くの物資が諸国から江戸へ送られるようになった、そのインフラ整備の痕跡。

名称は、その開発者が小名木四郎兵衛だったため、あるいはもともと「うなぎさわ」「うなきがわ」と呼んでおり、鰻(ウナギ)が生息していたことによるという説がある。

当社は、江戸時代前期の慶安年間(1648年-1652年)、当地一帯を開拓した治兵衛が村の鎮守として山城国伏見稲荷大社の御分霊を勧請、創建したという。

御祭神は、蒼稲魂命天照皇大神の弟である素盞鳴命の御子。「うが」とは食物のこと食物の守護神。

伊勢の神宮(伊勢神宮)の豊受大神宮(外宮)の御祭神である豊受比売命とは異名同神だが、天照皇大神が特に蒼稲魂命を愛したので、外宮に豊受比売命の名で祀られているという。

開拓者の名を取り、当地は治兵衛新田と呼ばれた。『新編武蔵風土記稿』にも、「冶兵衛新田」とあり、「稲荷社」として当社も記載されている。

伏見三ノ峯の白菊大神も勧請、奉斎されているという。江戸時代には代官所の守護神として崇敬されていたと言い伝えられている。

昭和20年(1945年)、戦災により全焼した。戦後、再建されたようだ。境内には庚申塚、力石がある。

境内には神輿倉庫がある。4年に一度の8月下旬、当社単独で例大祭が行われる。冬季オリンピックの開催年に当たる。隣接の亀高神社と同日開催でもある。

当日は、神輿渡御山車、囃子が巡行する。境内は狭く、この大祭の太鼓奉納は鳥居前の車道で行われる。

【ご利益】
商売繁盛、地域安全、家内安全
治兵衛稲荷神社 東京都江東区北砂
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