頼朝を安房に渡した勝軍飯綱大権現、天狗伝承、横浜のこんぴらさん
[住所]神奈川県横浜市神奈川区台町7-34
[電話]045-311-5401

大綱金刀比羅神社(おおつなことひらじんじゃ)は、神奈川県横浜市神奈川区台町にある神社。近代社格では村社。横浜のこんぴらさんとして親しまれている。参拝すれば、御朱印を頂ける。

平安時代末期の治承4年(1180年)、源頼朝は伊豆国石橋山の一戦に敗れ、安房国へ小舟で逃れようとしたが、逆巻く浪は雪を噴いて渡航することができなかった。

疲れと相まって、うとうとまどろむ中に大権現の神霊が現れ、「汝思い惑はず目指す安房の国に渡るべし、海上に憂いあらば吾よく守護してその難なからしむべし」と告げた。

頼朝は目覚めた後、あまりの不思議に言葉も出なかったが、それから波も穏やかになり、安房に無事渡ることができた。以降の頼朝の再起と、幕府開設は周知の通り。

頼朝は深くこの時の鴻恩に感じ、勝軍飯綱大権現と崇め奉り、文治年間(1185年-1189年)に青木山上に一宇を建て、武運を祈った。

以降、この袖ヶ浦から出船した者は、必ず当地で護摩を修めてから、諸国へ出航するのが例になったという。山上に飯綱大権現が、その麓に金刀比羅大権現が祀られてきた。

旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座し、往時は東海道を上り下りする旅人は道中の安泰を祈り、街道すじには回船問屋が軒を連ね、繁栄を極めたと伝わる。

社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植られた大きなものだったと伝わる。

江戸時代前期の寛永19年(1642年)、代官伊奈半十郎と、神主長塚常陸守重永が社殿を造営した。これが、飯綱大権現の創建とされる場合がある。勧請元は飯綱神社か。

江戸時代中期の宝暦14年(1763年)には紀国屋忠右衛門が石灯篭一対を奉納した。天明8年(1788年)、江戸材木町仏工清七が御厨子の塗代えを行った。

江戸時代後期の享和元年(1801年)、回船問屋の小野屋茂兵衛と津屋太兵衛が石灯篭4基を奉納。文化7年(1807年)にも筑前国宮浦の栄久丸米蔵が石灯篭を奉納した。

『新編武蔵風土記稿』下台町の条には「飯綱権現社」とあり、寛永19年の建立が記されている。当時の別当は普門寺だった。

棟札によれば、弘化3年(1846年)、社殿が営繕された。弘化4年(1847年)には句碑「吹行やひともすすきの秋のかぜ」が建立された。

明治2年(1869年)、太政官通達により飯綱大権現は大綱神社に、金刀比羅大権現は金刀比羅神社に改称した。

明治15年(1882年)、村社に列し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進社に指定された。明治43年(1910年)には裏山が崩壊し、金刀比羅神社の社殿が半壊した。

明治44年(1911年)、社殿を再建し、山上より大綱神社を移築して本殿として、両社を合斎して現社号に改称した。

昭和60年(1985年)にも裏山が崩壊し、社殿が損壊して、一時期仮社殿で祀られていたが、近年、再建された。

御祭神は、大国主神の和魂である大物主神金山彦神日本武尊大山津見神。例祭は5月16・17日で例大祭、現在は5月第2土・日曜日に行われているようだ。

末社に、三宝荒神社(火之迦具土神)、弁天社(奥津島比売命市杵島比売命多岐津島比売命)、龍神社(闇淤加美神闇御津羽神)、稲荷社(宇迦之御魂神)がある。

境内には「大天狗の像」が安置されている。もともと大天狗の像は讃岐の金刀比羅宮から江戸に奉納されようとしていたもの。

使者が天狗像を担いで東海道を進んでいた際、神奈川宿で一泊したところ、翌日には大天狗が岩のような重たさになり、担げなくなってしまった。

使者はどうすることもできず、神奈川宿にもう一泊滞在。するとその晩、使者の夢に天狗が現れ、「飯綱の神宮に留まりたいので、この地に私を置いていくように」と告げた。

それを聞いた使者は、そのまま当社に奉納し、「大天狗の像」は飯綱権現に属する者として祀られるようになったという。

なお、当社は、市内栄区長尾台の御霊神社、藤沢市の宮前御霊神社柄沢神社渡内日枝神社高谷大神宮小塚荒神神社などを兼務している。

【ご利益】
交通安全、海上安全、旅行安全、産業振興、病気平癒
大綱金刀比羅神社 神奈川県横浜市神奈川区台町
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