梶原景時が創建、景時と一族の供養塔、坂ノ下の元宮とも
[住所]神奈川県鎌倉市梶原1-12-27
[電話]0467-47-4798 - 稲荷神社
御霊神社(ごれいじんじゃ)は、神奈川県鎌倉市梶原にある神社。梶原御霊神社とも。現在は稲荷神社の兼務社である。御朱印の有無は不明。
湘南モノレール湘南深沢駅から徒歩圏内。深沢小学校の脇。アジサイが有名な長谷寺からも近く、当社にも小さいながら「あじさいこみち」がある。
平安時代末期の建久元年(1190年)、梶原景時が創建したと伝えられている。もとは現在地の東方2キロほど、化粧坂上の葛原岡に鎮座したとも。
当社から、葛原岡までの道の途中には、「御堂屋敷」「みず屋敷」などと呼ばれる場所があり、梶原景時の屋敷があったと伝わっている。
梶原景時は、石橋山の戦いで敗れ、洞窟に隠れていた源頼朝を救ったことから重用され、また、和歌も嗜んだりと教養もあり、頼朝の信頼が厚かった。
しかし、源義経とは敵対、徐々に周りの御家人からも嫌われ、「げじげじ殿」と呼ばれたとも。頼朝の死後、追放され、一族とともに滅ぼされた。
深沢小学校裏手のやぐらにある五輪塔は、梶原景時のとも、梶原景時と一族の供養塔とも考えられている。
梶原氏は鎌倉景通の子である景久が梶原を名乗ったことに始まると伝えられているが、一説には、御祭神である鎌倉権五郎景政を祖としているともされる。
当社の御祭神は、鎌倉権五郎景政・梶原景時。『新編相模国風土記稿』によれば、江戸時代までは鎌倉権五郎景政夫婦の像を御神体として祀り、梶原景時の像も安置されていたという。
『かまくら子ども風土記』によれば、一帯では最も有名な坂ノ下の御霊神社は、当社を移したもの、つまり分社ともされているが、詳細は不明。
また、藤沢市宮前の村岡御霊神社では、当社は村岡御霊神社の分社であるとの由緒を伝える。また、東京都八王子市元八王子町にはやはり景時創建という八幡神社と、御霊神社がある。
横浜市戸塚区深谷町の三島神社も景時創建と伝わる。
境内には五輪塔が並ぶ。梶原氏代々の供養塔、あるいは新田義貞の鎌倉攻めの際の戦死者の供養塔とも。南北朝時代初期の建武元年(1334年)12月23日の銘があるとも。
石造鳥居は江戸時代後期の文政4年(1821年)の建立。
【ご利益】
諸願成就
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御霊神社(ごれいじんじゃ)は、神奈川県鎌倉市梶原にある神社。梶原御霊神社とも。現在は稲荷神社の兼務社である。御朱印の有無は不明。
湘南モノレール湘南深沢駅から徒歩圏内。深沢小学校の脇。アジサイが有名な長谷寺からも近く、当社にも小さいながら「あじさいこみち」がある。
平安時代末期の建久元年(1190年)、梶原景時が創建したと伝えられている。もとは現在地の東方2キロほど、化粧坂上の葛原岡に鎮座したとも。
当社から、葛原岡までの道の途中には、「御堂屋敷」「みず屋敷」などと呼ばれる場所があり、梶原景時の屋敷があったと伝わっている。
梶原景時は、石橋山の戦いで敗れ、洞窟に隠れていた源頼朝を救ったことから重用され、また、和歌も嗜んだりと教養もあり、頼朝の信頼が厚かった。
しかし、源義経とは敵対、徐々に周りの御家人からも嫌われ、「げじげじ殿」と呼ばれたとも。頼朝の死後、追放され、一族とともに滅ぼされた。
深沢小学校裏手のやぐらにある五輪塔は、梶原景時のとも、梶原景時と一族の供養塔とも考えられている。
梶原氏は鎌倉景通の子である景久が梶原を名乗ったことに始まると伝えられているが、一説には、御祭神である鎌倉権五郎景政を祖としているともされる。
当社の御祭神は、鎌倉権五郎景政・梶原景時。『新編相模国風土記稿』によれば、江戸時代までは鎌倉権五郎景政夫婦の像を御神体として祀り、梶原景時の像も安置されていたという。
『かまくら子ども風土記』によれば、一帯では最も有名な坂ノ下の御霊神社は、当社を移したもの、つまり分社ともされているが、詳細は不明。
また、藤沢市宮前の村岡御霊神社では、当社は村岡御霊神社の分社であるとの由緒を伝える。また、東京都八王子市元八王子町にはやはり景時創建という八幡神社と、御霊神社がある。
横浜市戸塚区深谷町の三島神社も景時創建と伝わる。
境内には五輪塔が並ぶ。梶原氏代々の供養塔、あるいは新田義貞の鎌倉攻めの際の戦死者の供養塔とも。南北朝時代初期の建武元年(1334年)12月23日の銘があるとも。
石造鳥居は江戸時代後期の文政4年(1821年)の建立。
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