坂合部連が山の神を奉斎した式内社、鎌倉期に御霊神社が分社・合祀
[住所]奈良県五條市黒駒町375
[電話]0747-52-3716 - 御霊神社
落杣神社(おちそまじんじゃ)は、奈良県五條市黒駒町にある神社。『延喜式神名帳』にある「落杣神社(大和国・宇智郡)」に比定される式内社(小社、鍬)。御朱印の有無は不明。
黒駒集落のほぼ中央、吉野川の左岸に突出した小丘陵上に鎮座している。現在は黒駒御霊神社に合祀されており、黒駒御霊神社・落杣神社、落杣神社・御霊神社などとも。
ただし、奈良県神社庁の一覧表によれば、落杣神社と御霊神社は同住所に別々に記載されており、二つの神社とみなされている可能性がある。
並河誠所『大和志』では、「在所未詳、或ハ黒駒村ニ在リト曰イ、今御霊ト称ス。坂合荘十三村共ニ祭祀ニ預ル」とある。
『式内調査報告』は、「坂合郡は太古より坂合部連が畿内と南海道の国境守備に任じ、その傍ら山林の経営をしたことから、山の神を氏神統一の中心として奉斎し」たものとしている。
『新撰姓氏録』では、坂合部首について「大彦命なり。第19代允恭天皇の御世、国境の標を造立、因って姓坂合部連を賜る」とある。
現在、御祭神は大山祇命。山の神からの連想だと考えられるが、その根拠は不詳であり、古老の所伝によったものだという。
鎌倉時代の嘉禎年間(1235年-1238年)、霊安寺の御霊神社(井上内親王)を当社境内に勧請、その後、主客逆転したという。
霊安寺の御霊神社の宮分け伝説では、宮分けの時、御神体を馬に乗せて犬飼町へ運ぼうとしたところ、馬の脚が止まり、押せど引けど動かなくなった。
それで、御霊さんはこの地に留まることをお望みだと思い、ここに祀ったといわれている。御神体は箒だったと伝わっている。
当社境域のもとの社地と伝える位置に、古墳の石室が露出したとみられる大岩を磐坐とする小祠があるが、俗に磐境大明神と称して祀っている。
その前に小祠を置いて祀られているのが式内社「落杣神社」であるとも。近くには黒駒古墳もある。
現在の拝殿には、御霊神社・落杣神社の額がかかっている。本殿は平成21年(2009年)より大修理を行い、平成23年(2011年)に竣工した。
調査の結果、本殿の彩色塗装が、延宝年間(1673年-1681年)の建立当初、明和年間(1764年-1772年)、安政年間(1855年-1860年)の3期にわたって変遷していることが判明。
この平成の修理では外部彩色塗装を明和期の状態に復旧整備し、内部彩色を現状のまま保存した。県の文化財に指定されている。
例祭は10月23日。旧坂合部村全体の祭日として神幸祭がある。だんじりの曳行などが行われる。
境内社に、天皇神社(祟道天皇<早良親王>)・他戸神社(他戸親王)の他、天照皇大神社・鍵取神社・春日神社・住吉神社・竜田神社・若宮神社・琴平神社・八坂神社・八幡神社・日吉神社・菅原神社・大性神社・大屋比古神社がある。
拝殿前の石燈篭一対は天保9年(1838年)、鳥居前の一基は文政5年(1822年)、狛犬は万延元年(1860年)と、いずれも江戸時代後期に奉献されている。
当社の前方道端に梵鐘がある。江戸時代中期の寛政2年(1790年)改鋳のもので、元禄13年(1700年)にはすでに梵鐘があり、再造されたもの。平成2年(1990年)に改築。
参道に面し、招魂社がある。大正6年(1917年)ごろ建立されたもので、日清、日露戦争、満州事変、日支事変、太平洋戦争など英霊172柱が祀られている。
【ご利益】
家内安全、地域安全、諸願成就
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[電話]0747-52-3716 - 御霊神社
落杣神社(おちそまじんじゃ)は、奈良県五條市黒駒町にある神社。『延喜式神名帳』にある「落杣神社(大和国・宇智郡)」に比定される式内社(小社、鍬)。御朱印の有無は不明。
黒駒集落のほぼ中央、吉野川の左岸に突出した小丘陵上に鎮座している。現在は黒駒御霊神社に合祀されており、黒駒御霊神社・落杣神社、落杣神社・御霊神社などとも。
ただし、奈良県神社庁の一覧表によれば、落杣神社と御霊神社は同住所に別々に記載されており、二つの神社とみなされている可能性がある。
並河誠所『大和志』では、「在所未詳、或ハ黒駒村ニ在リト曰イ、今御霊ト称ス。坂合荘十三村共ニ祭祀ニ預ル」とある。
『式内調査報告』は、「坂合郡は太古より坂合部連が畿内と南海道の国境守備に任じ、その傍ら山林の経営をしたことから、山の神を氏神統一の中心として奉斎し」たものとしている。
『新撰姓氏録』では、坂合部首について「大彦命なり。第19代允恭天皇の御世、国境の標を造立、因って姓坂合部連を賜る」とある。
現在、御祭神は大山祇命。山の神からの連想だと考えられるが、その根拠は不詳であり、古老の所伝によったものだという。
鎌倉時代の嘉禎年間(1235年-1238年)、霊安寺の御霊神社(井上内親王)を当社境内に勧請、その後、主客逆転したという。
霊安寺の御霊神社の宮分け伝説では、宮分けの時、御神体を馬に乗せて犬飼町へ運ぼうとしたところ、馬の脚が止まり、押せど引けど動かなくなった。
それで、御霊さんはこの地に留まることをお望みだと思い、ここに祀ったといわれている。御神体は箒だったと伝わっている。
当社境域のもとの社地と伝える位置に、古墳の石室が露出したとみられる大岩を磐坐とする小祠があるが、俗に磐境大明神と称して祀っている。
その前に小祠を置いて祀られているのが式内社「落杣神社」であるとも。近くには黒駒古墳もある。
現在の拝殿には、御霊神社・落杣神社の額がかかっている。本殿は平成21年(2009年)より大修理を行い、平成23年(2011年)に竣工した。
調査の結果、本殿の彩色塗装が、延宝年間(1673年-1681年)の建立当初、明和年間(1764年-1772年)、安政年間(1855年-1860年)の3期にわたって変遷していることが判明。
この平成の修理では外部彩色塗装を明和期の状態に復旧整備し、内部彩色を現状のまま保存した。県の文化財に指定されている。
例祭は10月23日。旧坂合部村全体の祭日として神幸祭がある。だんじりの曳行などが行われる。
境内社に、天皇神社(祟道天皇<早良親王>)・他戸神社(他戸親王)の他、天照皇大神社・鍵取神社・春日神社・住吉神社・竜田神社・若宮神社・琴平神社・八坂神社・八幡神社・日吉神社・菅原神社・大性神社・大屋比古神社がある。
拝殿前の石燈篭一対は天保9年(1838年)、鳥居前の一基は文政5年(1822年)、狛犬は万延元年(1860年)と、いずれも江戸時代後期に奉献されている。
当社の前方道端に梵鐘がある。江戸時代中期の寛政2年(1790年)改鋳のもので、元禄13年(1700年)にはすでに梵鐘があり、再造されたもの。平成2年(1990年)に改築。
参道に面し、招魂社がある。大正6年(1917年)ごろ建立されたもので、日清、日露戦争、満州事変、日支事変、太平洋戦争など英霊172柱が祀られている。
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