井上内親王を祀る御霊本宮、23の分社と火雷神、10月に五條天平行列
[住所]奈良県五條市霊安寺町2206
[電話]0747-23-0178
御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、奈良県五條市霊安寺町にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、「御霊本宮」とある御朱印を頂ける。
御霊宮大明神・四所御霊大明神・宇智郡大宮・御霊さんとも。公式サイトでは、「井上内親王」の文字が右上に掲げられ、ホームボタンを兼ねている。
御祭神は、本殿に井上内親王、南脇社殿に他戸親王、北脇社殿に早良親王、別宮の火雷神社に井上内親王の第三子とされる火雷神を祀る。
御祭神である井上内親王は、聖武天皇の皇女として、奈良時代の養老元年(717年)に生誕。5歳で斎王として伊勢の皇大神宮(内宮)に出仕し、後に白壁王の妃となった。
宝亀元年(770年)、白壁王は第49代光仁天皇として即位。しかし政権争いに巻き込まれ、無実の罪により、皇太子他戸親王とともに大和国宇智郡没官の宅に流罪となった。
宝亀6年(775年)4月25日に逝去。その後、都に天変地異が起こり、悪疫が流行したため、朝廷は内親王母子の怨霊の祟りと恐れ、内親王を皇后に復し、霊安寺を建立した。
これと同時に、当社も創建されたと考えられる。平安時代前期の延暦19年(800年)のこととされる。この際、宇智郡全域が当社神域となったとも伝わる。
鎌倉時代の嘉禎4年(1238年)、吉原・牧野両豪族の論争に起因し、西阿田、佐名伝、山田、小島、六倉、岡、二見、中之、黒駒、近内の10社に分社した。
その後も宮分けが進み、南阿田、湯谷市塚、島野、釜窪、丹原、久留野、小和、牧、畑田、三在、住川、野原と、400年あまりの間に宇智郡において23社の分社が成立した。
現在においても、このうちの22社は確認されている。畑田町のものだけが未確認だが、同町に鎮座する八阪神社に合祀されているものと推測されている。
本宮の名はこれらの分社の元宮としてのもの。他に、奈良市薬師堂町の御霊神社などにも分祀している。遠く離れた東京都新宿区の中井御霊神社にも関連していると思われる伝承がある。
当社の本殿は三間社流造で、宇智郡内最大の社。棟札により、江戸時代前期の寛永14年(1637年)造営のもの。県の重要文化財に指定されている。
江戸時代中期の享保11年(1726)、延享3年(1745年)、後期の天保10年(1839)、幕末の嘉永6年(1853年)、明治41年(1908)に改修されている。
明治5年(1872年)、廃仏毀釈・神仏分離により、当社所蔵の仏像・経文等は満願寺へ移された。
この際に移されたものか、天永3年(1112年)の奥書がある大般若経530巻がある。現在は満願寺所蔵であるが、国の重要文化財に指定されている。
他にも、平安時代後期の作とされる木造御霊大神坐像がある。明治8年(1875年)、御祭神1100年祭が斎行された。昭和19年(1944年)、県社に昇格した。
例祭は10月第4日曜日で秋祭り。前日土曜日が本社例祭で、午後に神輿神幸渡御があり、五條御旅所で宵宮祭が執行される。
当日日曜日が五條巡幸で、午後には霊安寺に巡幸する。夕刻には還座祭が執行される。五條天平行列として大々的に行われている。
10月9日が節句祭で、別宮で若宮の火雷大神が年に一度御渡りして、本社母君である井上大神と対面する神事が行われる。
当社において、火雷大神は井上内親王の第三子とされる。史実において、内親王の子は2人。また、隔年で4月第4日曜日には太々神楽祭が斉行される。
境内社に、本殿の左右には春日神社と八幡神社が、参道には水神社・祓戸社・住吉社・琴平社、それと鳥居近くには稲荷社が祀られている。
【ご利益】
諸願成就(公式HP)
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御霊宮大明神・四所御霊大明神・宇智郡大宮・御霊さんとも。公式サイトでは、「井上内親王」の文字が右上に掲げられ、ホームボタンを兼ねている。
御祭神は、本殿に井上内親王、南脇社殿に他戸親王、北脇社殿に早良親王、別宮の火雷神社に井上内親王の第三子とされる火雷神を祀る。
御祭神である井上内親王は、聖武天皇の皇女として、奈良時代の養老元年(717年)に生誕。5歳で斎王として伊勢の皇大神宮(内宮)に出仕し、後に白壁王の妃となった。
宝亀元年(770年)、白壁王は第49代光仁天皇として即位。しかし政権争いに巻き込まれ、無実の罪により、皇太子他戸親王とともに大和国宇智郡没官の宅に流罪となった。
宝亀6年(775年)4月25日に逝去。その後、都に天変地異が起こり、悪疫が流行したため、朝廷は内親王母子の怨霊の祟りと恐れ、内親王を皇后に復し、霊安寺を建立した。
これと同時に、当社も創建されたと考えられる。平安時代前期の延暦19年(800年)のこととされる。この際、宇智郡全域が当社神域となったとも伝わる。
鎌倉時代の嘉禎4年(1238年)、吉原・牧野両豪族の論争に起因し、西阿田、佐名伝、山田、小島、六倉、岡、二見、中之、黒駒、近内の10社に分社した。
その後も宮分けが進み、南阿田、湯谷市塚、島野、釜窪、丹原、久留野、小和、牧、畑田、三在、住川、野原と、400年あまりの間に宇智郡において23社の分社が成立した。
現在においても、このうちの22社は確認されている。畑田町のものだけが未確認だが、同町に鎮座する八阪神社に合祀されているものと推測されている。
本宮の名はこれらの分社の元宮としてのもの。他に、奈良市薬師堂町の御霊神社などにも分祀している。遠く離れた東京都新宿区の中井御霊神社にも関連していると思われる伝承がある。
当社の本殿は三間社流造で、宇智郡内最大の社。棟札により、江戸時代前期の寛永14年(1637年)造営のもの。県の重要文化財に指定されている。
江戸時代中期の享保11年(1726)、延享3年(1745年)、後期の天保10年(1839)、幕末の嘉永6年(1853年)、明治41年(1908)に改修されている。
明治5年(1872年)、廃仏毀釈・神仏分離により、当社所蔵の仏像・経文等は満願寺へ移された。
この際に移されたものか、天永3年(1112年)の奥書がある大般若経530巻がある。現在は満願寺所蔵であるが、国の重要文化財に指定されている。
他にも、平安時代後期の作とされる木造御霊大神坐像がある。明治8年(1875年)、御祭神1100年祭が斎行された。昭和19年(1944年)、県社に昇格した。
例祭は10月第4日曜日で秋祭り。前日土曜日が本社例祭で、午後に神輿神幸渡御があり、五條御旅所で宵宮祭が執行される。
当日日曜日が五條巡幸で、午後には霊安寺に巡幸する。夕刻には還座祭が執行される。五條天平行列として大々的に行われている。
10月9日が節句祭で、別宮で若宮の火雷大神が年に一度御渡りして、本社母君である井上大神と対面する神事が行われる。
当社において、火雷大神は井上内親王の第三子とされる。史実において、内親王の子は2人。また、隔年で4月第4日曜日には太々神楽祭が斉行される。
境内社に、本殿の左右には春日神社と八幡神社が、参道には水神社・祓戸社・住吉社・琴平社、それと鳥居近くには稲荷社が祀られている。
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