神功皇后が那佐浦で奉祀とも、大里八幡神社から明治初期に分祀
和奈佐意富曾神社 徳島県海部郡海陽町大里松原2
[住所]徳島県海部郡海陽町大里松原2
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和奈佐意富曾神社(わなさおうそじんじゃ、和奈佐意富曽神社)は、徳島県海部郡海陽町大里松原にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 那賀郡「和奈佐意富曾神社」に比定される式内社(小社)の論社。

創祀年代は不詳。もとは鞆浦(ともうら)大宮、あるいは那佐浦とも呼ばれる地に鎮座したという。

『海部郡誌』によれば、「神功皇后三韓征伐の後、又熊襲を平定し南進して途中那佐の水門に入座せられた、此時皇子誉田別命の御影を遷し神に祀った」という。

『播磨国風土記』の「志深里」の由来伝承で、第17代履中天皇が「朕於阿波国和那散所食之貝哉(朕が阿波国の和那散で食した貝である)と述べたくだりがある。

この和那散が、那佐浦のこととされる。神野村という地名や洪水伝承がある。江戸時代初期の慶長9年(1604年)5月、大里松原に遷座した。

大里松原に遷座した頃に八幡宮と改称、現在も、当社北東すぐに大里八幡神社(誉田別神・天照大神天児屋根神)があり、この大里八幡神社が式内後継社だという。

『阿波志』によれば、「和奈佐意富曽祠 延喜式小祀と為す 今八幡と称す。古鏡及金口各一枚を納む」「興源公屡々米若干を賜ひ以て重葺の料と為す 鞆、浅川等二十一村共に祀る」とある。

『阿府志』には、「和奈佐意富曽神社 大里浦ニ在八幡宮ト号ス。神宝 鏡一面 鰐口一口 別当 神宮寺」などとある。

これらには、御祭神は日本武尊であり、景行成務仲哀・神功・応神の五帝と、日本武尊の子である息長田別皇子を配祀する、とある。

現在の当社は、中宮(なかみや)と呼ばれ、旧時の『延喜式』神名を伝えるため、明治初期(1868年)、大里八幡神社より分祀し、息長足姫命を祀ったものとされる。

なお、『大日本史』『特撰神名牒』『神名帳考証』では、当社御祭神を大麻比古神あるいは大麻神(天富命)とする。阿波国一宮大麻比古神社を連想させる。

『名神序頌』では、息長田別命とする一方で、日本武尊の兄である大碓命を当社御祭神としている。

なお、式内社「和奈佐意富曾神社」の論社は他に、阿南市羽ノ浦町の羽浦神社に合祀された社、那賀郡那賀町の蛭子神社がある。

【ご利益】
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和奈佐意富曾神社 徳島県海部郡海陽町大里松原
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