韓崇山「岡の宮の大クス」、義経が戦勝祈願、「うかの神」を祀る
[住所]徳島県板野郡板野町大寺字岡山路7
[電話]-
岡上神社(おかのうえじんじゃ)は、徳島県板野郡板野町大寺にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 板野郡「岡上神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
社前の道は四国88ヶ所巡礼の遍路道。第三番金泉寺と第四番大日寺の間に鎮座する。「岡の宮の大クス」と呼ばれる県の天然記念物がある。
根回り24.5メートル、樹高35メートル、樹冠東西27メートル、南北37メートル。樹齢650年以上とされる。三本の大クスが根元で繋がったような樹姿。
なぜかは分からないが、御神木ではなく、御神鏡木と呼ばれている。江戸時代、造船のために、藩から伐採を命じられたが、当時の氏子が命懸けで守ったと伝わる。
創祀年代は不詳。大正3年(1914年)、参道の石垣を改修しようとした時、曲玉・管玉・水晶玉、藍色珠数などが出土した。また、石段の竹林の中に、のぼり窯の跡がある。
韓崇山(かんぞうやま)の一部にあたる。韓崇山は海抜50メートルほどの小山だが、山上には二基の大古墳があり、北麓が韓崇寺址、南麓が当社という位置関係。
韓崇寺址からは平安時代の瓦が出土している。この大古墳は宅地開発などで消滅しているが、ほかにも古墳が複数あり、韓崇山古墳群と呼ばれている。
北は大坂峠を越して讃岐国大内郡刈田駅へ、南は阿波国国府に通じた交通の要路で、板野郡の郡治もこの付近にあったという。また、国造氏族の粟凡直の本拠地でもあった。
平安時代末期、源義経が勝浦に上陸し、讃岐屋島へ向かう途中、当社に参詣し、武運長久を祈願したという。
江戸時代には藩主蜂須賀家の崇敬篤く、毎年初穂米5石が奉納された。もとは、丘の麓に祀られていたが、江戸時代中期の寛政元年(1789年)、丘の上の現在地に遷座した。
旧地は不明だが、候補がある。当社から100メートルほど南に、古くから「岡宮の塚穴」として知られていた古墳がある。祭祠用の須恵器類が多量に出土している。
この古墳は、昔、この地方の人々が婚礼や法事のため沢山の食器を必要とした時、入用の食器の種類と数をお願いすると、約束の時間に全部整えられていた、という。
時には銭まで準備してくれることもあり、土地の人々は重宝したが、ある時、村の1人が借りた食器を返さなかったので、その後はもう村人の願いをきかなくなった。
本来、社名は「おかのうえ」ではなく、「おかのかみ」であり、「うかの神」からの訛りとする説がある。
御祭神が豊受姫命であり、農業神として近在の農民からも厚く信仰され、御神紋が「丸稲束」とあることで、「宇迦の神」つまりは宇迦之御魂神のこととされる。
一部の資料には、これらの説明を通り越して、一気に、倉稲魂命とも記載されている。
明治4年(1871年)、村社に列し、大正4年(1915年)には近在の王子宮・若宮神社・山神社・楠木神社を合祀。
現在は、奧津比売命・猿田彦命・草野姫命・市寸島姫命・日本武命・楠正成公を配祀する。大正7年(1918年)、郷社に昇格した。
例祭は10月18日。境内社に、地神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、厄災除け、家内安全、地域安全
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・徳島県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、徳島県に鎮座している神社の一覧
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岡上神社(おかのうえじんじゃ)は、徳島県板野郡板野町大寺にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 板野郡「岡上神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
社前の道は四国88ヶ所巡礼の遍路道。第三番金泉寺と第四番大日寺の間に鎮座する。「岡の宮の大クス」と呼ばれる県の天然記念物がある。
根回り24.5メートル、樹高35メートル、樹冠東西27メートル、南北37メートル。樹齢650年以上とされる。三本の大クスが根元で繋がったような樹姿。
なぜかは分からないが、御神木ではなく、御神鏡木と呼ばれている。江戸時代、造船のために、藩から伐採を命じられたが、当時の氏子が命懸けで守ったと伝わる。
創祀年代は不詳。大正3年(1914年)、参道の石垣を改修しようとした時、曲玉・管玉・水晶玉、藍色珠数などが出土した。また、石段の竹林の中に、のぼり窯の跡がある。
韓崇山(かんぞうやま)の一部にあたる。韓崇山は海抜50メートルほどの小山だが、山上には二基の大古墳があり、北麓が韓崇寺址、南麓が当社という位置関係。
韓崇寺址からは平安時代の瓦が出土している。この大古墳は宅地開発などで消滅しているが、ほかにも古墳が複数あり、韓崇山古墳群と呼ばれている。
北は大坂峠を越して讃岐国大内郡刈田駅へ、南は阿波国国府に通じた交通の要路で、板野郡の郡治もこの付近にあったという。また、国造氏族の粟凡直の本拠地でもあった。
平安時代末期、源義経が勝浦に上陸し、讃岐屋島へ向かう途中、当社に参詣し、武運長久を祈願したという。
江戸時代には藩主蜂須賀家の崇敬篤く、毎年初穂米5石が奉納された。もとは、丘の麓に祀られていたが、江戸時代中期の寛政元年(1789年)、丘の上の現在地に遷座した。
旧地は不明だが、候補がある。当社から100メートルほど南に、古くから「岡宮の塚穴」として知られていた古墳がある。祭祠用の須恵器類が多量に出土している。
この古墳は、昔、この地方の人々が婚礼や法事のため沢山の食器を必要とした時、入用の食器の種類と数をお願いすると、約束の時間に全部整えられていた、という。
時には銭まで準備してくれることもあり、土地の人々は重宝したが、ある時、村の1人が借りた食器を返さなかったので、その後はもう村人の願いをきかなくなった。
本来、社名は「おかのうえ」ではなく、「おかのかみ」であり、「うかの神」からの訛りとする説がある。
御祭神が豊受姫命であり、農業神として近在の農民からも厚く信仰され、御神紋が「丸稲束」とあることで、「宇迦の神」つまりは宇迦之御魂神のこととされる。
一部の資料には、これらの説明を通り越して、一気に、倉稲魂命とも記載されている。
明治4年(1871年)、村社に列し、大正4年(1915年)には近在の王子宮・若宮神社・山神社・楠木神社を合祀。
現在は、奧津比売命・猿田彦命・草野姫命・市寸島姫命・日本武命・楠正成公を配祀する。大正7年(1918年)、郷社に昇格した。
例祭は10月18日。境内社に、地神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、厄災除け、家内安全、地域安全
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