「大きな港」、式内唯一の大苫邊尊、8月に平安末以来の神踊り神事
[住所]徳島県徳島市上八万町上中筋558
[電話]088-668-0167
宅宮神社(えのみやじんじゃ)は、徳島県徳島市上八万町上中筋にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 名方郡「意富門麻比賣神社/意富門麻比売神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。平安時代前期の貞観16年(874年)、従五位下に叙せられた。もとは式内社名を称した。
御祭神は大苫邊尊。『古事記』にある神世七代の五代目の兄妹神の妹神、女神であり、そのために、「比売神社」か。
ちなみに、伊弉諾尊・伊弉册尊は七代目なので、それよりも古い神ということになる。
式内社の中で、大苫邊尊を祀るのは当社が唯一。また、兄神である大戸之道尊とともに祀られない、珍しいパターンともいえる。
「意富(オホ)」は「大(オオ)」を、「門麻(トマ)」は「泊(トマリ)」、つまり港を意味するという。
そのため、現在の上八万町にあたる「八萬津」を祀る神であり、昔は「大きな港」があったことを示すともされる。
もとは現在地の南500メートルほど、上八万小学校の西南の山腹に鎮座していたという。現在、古社地は農地になっているという。
天正年間(1573年-1593年)、長宗我部元親による阿波国侵攻の際、兵火により社殿が焼失した。その後、神林地としての現在地に社殿が再建された。
その時より宅宮大明神として奉斎されたという。現在までに、日本唯一の家宅の守護神である。
他に、大年大神・稚武彦命(雅武彦命)も祀る。大年大神は不明だが、稚武彦命は江戸時代中期の寛保元年(1741年)の勧請だという。
江戸時代には、藩主の蜂須賀家の崇敬が篤く、阿波、淡路両国への配札御免宿船渡の御三判を下賜され、両国一円に御神符を配札していたという。
他に、14代藩主蜂須賀茂韶の揮毫による神名額が社宝として現存している。また、神代文字の版木が残されている。神代文字の他、阿波文字と呼ばれる場合もある。
当社の例祭は11月3日。何よりも有名なのは神踊り。正式には「森」という字の形式で、木を神に置き換えた、神という字を三つ並べた文字を使う。
平安時代末期から途絶えることなく続いてきた神事で、以前は旧暦7月16日に、現在は8月15日に奉納されている。
もとは13地区の馬組と称す氏子が輪番となって斎行されたが、現在は11馬組。神籬を囲んで4人の子供が向かい合って太鼓を打ち、踊り子はその周囲を囲んで円陣を作って踊る。
ちなみに太鼓を打つ子供は長男に限られる。踊りはその場からほとんど動かず、扇を持って神籬をあおぐような動きを繰り返す。
歌の歌詞は12種あり、いずれも素朴な歌詞だとされる。歌によって動作は替わり、休憩を挟みながら2時間ほどかけて踊る。
12種には、御神踊・出雲踊・伯母踊・住吉踊・駿河踊・汐汲・博多踊・燕踊・鐘巻踊・忍び踊・赤黄踊・清水踊があり、下記はそのうちの出雲踊の一節。
当社がもともとは壱与を祀ったものとする説もある。ともかく、当社の神踊りは、いわゆる阿波踊りの原型ともされ、市の重要文化財習俗技芸に指定されている。
また、当社を筆頭とした名方郡の著名大社、御七社と市中五社からなる12社を巡る「十二社詣り」が行われている。
社殿は東向きに鎮座しており、境内社に、朝宮神社(大日孁命・月読命)・十二社神社(天神七代・地神五代)・厳島神社(市寸嶋比売命)がある。
御神木はもとは夫婦杉だったが、落雷を受けた。現在、大きな根が安置されている。現在の御神木は梛であり、他に大きい楠の木がある。
【ご利益】
五穀豊穣、悪疫退散、方除け、宅地の神

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宅宮神社(えのみやじんじゃ)は、徳島県徳島市上八万町上中筋にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 名方郡「意富門麻比賣神社/意富門麻比売神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。平安時代前期の貞観16年(874年)、従五位下に叙せられた。もとは式内社名を称した。
御祭神は大苫邊尊。『古事記』にある神世七代の五代目の兄妹神の妹神、女神であり、そのために、「比売神社」か。
ちなみに、伊弉諾尊・伊弉册尊は七代目なので、それよりも古い神ということになる。
式内社の中で、大苫邊尊を祀るのは当社が唯一。また、兄神である大戸之道尊とともに祀られない、珍しいパターンともいえる。
「意富(オホ)」は「大(オオ)」を、「門麻(トマ)」は「泊(トマリ)」、つまり港を意味するという。
そのため、現在の上八万町にあたる「八萬津」を祀る神であり、昔は「大きな港」があったことを示すともされる。
もとは現在地の南500メートルほど、上八万小学校の西南の山腹に鎮座していたという。現在、古社地は農地になっているという。
天正年間(1573年-1593年)、長宗我部元親による阿波国侵攻の際、兵火により社殿が焼失した。その後、神林地としての現在地に社殿が再建された。
その時より宅宮大明神として奉斎されたという。現在までに、日本唯一の家宅の守護神である。
他に、大年大神・稚武彦命(雅武彦命)も祀る。大年大神は不明だが、稚武彦命は江戸時代中期の寛保元年(1741年)の勧請だという。
江戸時代には、藩主の蜂須賀家の崇敬が篤く、阿波、淡路両国への配札御免宿船渡の御三判を下賜され、両国一円に御神符を配札していたという。
他に、14代藩主蜂須賀茂韶の揮毫による神名額が社宝として現存している。また、神代文字の版木が残されている。神代文字の他、阿波文字と呼ばれる場合もある。
当社の例祭は11月3日。何よりも有名なのは神踊り。正式には「森」という字の形式で、木を神に置き換えた、神という字を三つ並べた文字を使う。
平安時代末期から途絶えることなく続いてきた神事で、以前は旧暦7月16日に、現在は8月15日に奉納されている。
もとは13地区の馬組と称す氏子が輪番となって斎行されたが、現在は11馬組。神籬を囲んで4人の子供が向かい合って太鼓を打ち、踊り子はその周囲を囲んで円陣を作って踊る。
ちなみに太鼓を打つ子供は長男に限られる。踊りはその場からほとんど動かず、扇を持って神籬をあおぐような動きを繰り返す。
歌の歌詞は12種あり、いずれも素朴な歌詞だとされる。歌によって動作は替わり、休憩を挟みながら2時間ほどかけて踊る。
12種には、御神踊・出雲踊・伯母踊・住吉踊・駿河踊・汐汲・博多踊・燕踊・鐘巻踊・忍び踊・赤黄踊・清水踊があり、下記はそのうちの出雲踊の一節。
伊豆毛の国の伯母御の宗女、御年十三ならせます、こくちは壱字とおたしなむこれが、いわゆる『魏志倭人伝』に、卑弥呼の後継者として記載された宗女壹與(壱与)のことを指すものとして、時に邪馬台国論争で話題になることがある。
当社がもともとは壱与を祀ったものとする説もある。ともかく、当社の神踊りは、いわゆる阿波踊りの原型ともされ、市の重要文化財習俗技芸に指定されている。
また、当社を筆頭とした名方郡の著名大社、御七社と市中五社からなる12社を巡る「十二社詣り」が行われている。
社殿は東向きに鎮座しており、境内社に、朝宮神社(大日孁命・月読命)・十二社神社(天神七代・地神五代)・厳島神社(市寸嶋比売命)がある。
御神木はもとは夫婦杉だったが、落雷を受けた。現在、大きな根が安置されている。現在の御神木は梛であり、他に大きい楠の木がある。
【ご利益】
五穀豊穣、悪疫退散、方除け、宅地の神

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