式内「事代主神社」二社、阿波起源の地近くに出雲族が土着
[住所]徳島県阿波市市場町伊月宮ノ本100
[電話]-
事代主神社(ことしろぬしじんじゃ)は、徳島県阿波市市場町伊月宮ノ本にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 阿波郡「事代主神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
川沿いの土手の上から見下ろすと、田の向こうの一画に、木々に囲まれた境内がある。境内には「伊月農村公園」という案内板があり、遊具なども設置されている。
創祀年代は不詳。一説に、第3代安寧天皇の伯父にあたる多臣の子孫が、出雲族を率いて阿波の伊月に土着し、祖神である事代主命と、祖母五十鈴依媛命を奉斎したという。
『増補古城記』伊月城の項には、「御子残って中川・郡・守等是その神孫なり」ともある。
式内社で「事代主神社」という社号は、当社を含め、いずれも阿波国で、二社のみ。他には旧勝浦郡にあり、現在は生夷神社に比定されている。
鎮座地の「伊月」は、「斎(いつき)」の意味で、祖神である事代主命を斎き祀る場所の意味だともいう。一方で、「イツ岐」「イツ城」とも。この場合の「イツ」は阿波を指すという。
また、吉野川の対岸(南岸)には、粟島という地があり、忌部氏が開拓して粟を作った場所で、阿波の地名の起こりとされる。現在は善入寺島と呼ばれる。
そこには、事代主命の后である阿波津媛命を祀った八條神社が鎮座していたという。八條神社は現在、吉野川改修工事に伴い、八幡の八幡神社境内に遷座している。
また、粟島とは淡島のことで、近辺には蛭子と呼ばれる地名もあり、『古事記』にある伊耶那岐命・伊耶那美命の間に最初に生まれた水蛭子で、次の淡島を指すとの指摘もある。
そうなると、付会かもしれないが、淡嶋神社といえば、少名毘古那神ともなり、当地一帯になぜか後の恵比寿(戎)神信仰の源流が集中することにもなる。
『出雲国風土記』や、『延喜式神名帳』出雲国の条には、事代主神・建御名方神、建御雷之男神に関わる社や伝承がないため、当地近辺が『古事記』の国譲りの舞台との説もある。
実際、当社の近くには建御雷之男神を祀る式内社「建布都神社」がある。「建布都神社」の論社は多数に上る。
ともかく近世以降、当社は「事代明神」「事代大明神」と称していたが、明治3年(1870年)に現社号に復した。
主祭神は事代主命。現在、大国主命を合祀している。明治5年(1872年)、郷社に列し、明治40年(1907年)10月には神饌幣帛供進社に指定された。
例祭は10月10日。現在はその近辺の日曜日などに斎行されている。境内社に、鎮守神社・森壱岐神・大住大明神がある。
なお、徳島市通町の同名の神社は当社が本宮であるとの説がある。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、一族繁栄、地域安全
【関連記事】
・徳島県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、徳島県に鎮座している神社の一覧
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事代主神社(ことしろぬしじんじゃ)は、徳島県阿波市市場町伊月宮ノ本にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 阿波郡「事代主神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
川沿いの土手の上から見下ろすと、田の向こうの一画に、木々に囲まれた境内がある。境内には「伊月農村公園」という案内板があり、遊具なども設置されている。
創祀年代は不詳。一説に、第3代安寧天皇の伯父にあたる多臣の子孫が、出雲族を率いて阿波の伊月に土着し、祖神である事代主命と、祖母五十鈴依媛命を奉斎したという。
『増補古城記』伊月城の項には、「御子残って中川・郡・守等是その神孫なり」ともある。
式内社で「事代主神社」という社号は、当社を含め、いずれも阿波国で、二社のみ。他には旧勝浦郡にあり、現在は生夷神社に比定されている。
鎮座地の「伊月」は、「斎(いつき)」の意味で、祖神である事代主命を斎き祀る場所の意味だともいう。一方で、「イツ岐」「イツ城」とも。この場合の「イツ」は阿波を指すという。
また、吉野川の対岸(南岸)には、粟島という地があり、忌部氏が開拓して粟を作った場所で、阿波の地名の起こりとされる。現在は善入寺島と呼ばれる。
そこには、事代主命の后である阿波津媛命を祀った八條神社が鎮座していたという。八條神社は現在、吉野川改修工事に伴い、八幡の八幡神社境内に遷座している。
また、粟島とは淡島のことで、近辺には蛭子と呼ばれる地名もあり、『古事記』にある伊耶那岐命・伊耶那美命の間に最初に生まれた水蛭子で、次の淡島を指すとの指摘もある。
そうなると、付会かもしれないが、淡嶋神社といえば、少名毘古那神ともなり、当地一帯になぜか後の恵比寿(戎)神信仰の源流が集中することにもなる。
『出雲国風土記』や、『延喜式神名帳』出雲国の条には、事代主神・建御名方神、建御雷之男神に関わる社や伝承がないため、当地近辺が『古事記』の国譲りの舞台との説もある。
実際、当社の近くには建御雷之男神を祀る式内社「建布都神社」がある。「建布都神社」の論社は多数に上る。
ともかく近世以降、当社は「事代明神」「事代大明神」と称していたが、明治3年(1870年)に現社号に復した。
主祭神は事代主命。現在、大国主命を合祀している。明治5年(1872年)、郷社に列し、明治40年(1907年)10月には神饌幣帛供進社に指定された。
例祭は10月10日。現在はその近辺の日曜日などに斎行されている。境内社に、鎮守神社・森壱岐神・大住大明神がある。
なお、徳島市通町の同名の神社は当社が本宮であるとの説がある。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、一族繁栄、地域安全
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