富士見台や恵那山など神坂峠登り口、山間に海神祀る、日本武尊伝承
[住所]長野県伊那郡阿智村大字智里字杉ノ木平3577
[電話]0265-44-2011

神坂神社(みさかじんじゃ)は、長野県伊那郡阿智村にある神社。近代社格では無格社。御朱印の有無は不明。

古代の東山道最大の難所といわれた神坂峠への登り口が境内にある。万葉の時代から歌に詠まれている。神坂峠経由で富士見台や恵那山にも登れる。

園原から当社までは万葉浪漫コースとして知られ、また、当社から神坂峠まで古代東山道のルートをたどる自然歩道があり、約6.5キロ、徒歩約3時間である。

創祀年代は不詳。当社の正式名は「神坂社」のようだが、境内の鳥居や由緒書きには「神坂神社」とあり、境内入口の社号標には「神御坂神社」とある。

園原の里の最も奥まったところに鎮座する。俗に住吉様といわれ、表筒男命中筒男命底筒男命住吉三神(墨江三前大神とも、三海神とも)を主神とする。

この山中に、わだつみ(航海)の神がなぜ祀られたかについては不詳。一説に、安曇族が西方から信濃国に移住して来た遺跡の一つではないかともいわれている。

つまり、福岡県福岡市東区の志賀海神社から、県内安曇野市の穂高神社までのルート上。例えば、大阪府茨木市三島丘には磯良神社などがあり、途中途中で痕跡をたどれる。

神坂峠に関して、『古事記』に倭建命(日本武尊)が甲斐国より「科野国に越えまして、科野の坂の神を言向けて、尾張国に還り来て」とある。

『日本書紀』景行天皇40年の条に、日本武尊が信濃の山中で白鹿となって現れた神に蒜を投げつけて殺したため、道に迷って難渋したが、白い犬に助けられ美濃に出たとある。

以前は、信濃坂を越える者は、神の気を受けて病になる者が多かったが、この後は、山を越えるものは蒜を噛んで人や牛馬に塗ると神気にあたらなくなったという。

これらの科野坂や信濃坂は神坂峠のこととされる。参道を進むと右手に、日本武尊の腰掛石とも、古代祭祀の磐座ともいう大石がある。

また、『万葉集』の埴科郡の神人部子忍男の歌に下記があり、古代、旅する人々は峠の神に手向けして旅の安全を祈ったようで、神坂峠にも古代の祭祀遺跡が残っている。
千早振る 神の御坂に 幣まつり 斎ふ命は 母父のため
当地一帯には、『源氏物語』第2帖「帚木」(ははきぎ。はゝき木)のモデルとなった樹木がある。

園原山の中腹にあったヒノキの一種で、周囲6メートル余り、地上22メートルの大木で、枝が四方にのび、遠くから見るときはまるでホウキを立てたように見えたという。

江戸時代中期以後に、日本武尊・誉田別尊(八幡神)・建御名方命(諏訪明神)・須佐之男命(牛頭天王)が合祀されている。

一説に、建御名方命ではなく、天津日子根命が合祀されているとも。

社殿は一間社流れ造りで、明治22年(1889年)に木曽郡上松出身の坂田亀吉、通称木曽亀の建造によるもので、障壁・虹梁などの透し彫りの精巧さが美事である。

境内には、下記のような情趣に富んだ石造文化財も多い。

・富山鉄斎揮耄による園原の由来を刻んだ園原碑
・北原阿智之助(痴山)揮耄の万葉集防人の歌碑
・犬養孝筆による万葉集東歌の歌碑
・黒坂周平筆による凌雲集の漢詩磨崖碑

当社境内には、樹令1000年を超す日本杉や、数百年を経た栃の巨木数本がある。日本武尊が食事に使った箸を挿したところ、巨木に成長したという伝承がある。

社殿そばの日本杉は、もとは2本あったが、1本は明治25年(1892年)の暴風雨で倒れた。その年輪は樹齢2000年以上だったという。

【ご利益】
リフレッシュ、旅行・交通安全、身体壮健
神坂神社 長野県伊那郡阿智村
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