家康の御殿跡、地名起源、三役制度の大祭、蹴鞠、11月には熊手
[住所]静岡県御殿場市御殿場196
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吾妻神社(あづまじんじゃ)は、静岡県御殿場市御殿場にある神社。御朱印の有無は不明。

創建年代は不詳。一帯は徳川家康が大御所として隠居していた駿府から足柄を越えて江戸を往来する際の宿泊施設として造営された御殿跡。

隣接して高尾山穂見神社が鎮座するが、高尾山穂見神社はその御殿跡に創設されたことがはっきりしており、当社も御殿跡での創建か、遷座となる。

この御殿は、江戸時代初期の元和元年(1615年)、沼津代官の長野九左衛門が、この地方の土豪の芹沢将監に命じて造らせたもの。

御茶屋御殿とも称されたこの御殿は、現在の当社の境内から、北側の静岡県立御殿場高校にかけての範囲。

東西50間(約90メートル)、南北45間(約82メートル)、約500平方メートルという広大なもので、周囲は高さ3メートル、幅数メートルの土塁で囲まれていた。

内部の施設は、周囲に竹林を巡らし、茅葺屋根に松の柱の建物と、竹で編んだ垣根、屋敷の中を通る川には石橋が架けられており、東側には馬屋があったといわれる。

しかし、翌元和2年(1616年)4月17日、家康が没したため、結局、家康はこの御殿を使用することはなかった。

御殿を造営するにあたり、御殿を中心として新しく町が建設されることになり、各地から人々が集められ、この新しい町は御殿新町と称された。

つまり、「御殿場」の地名発祥。なお、この元和2年には、早くも当地で家康を東照大権現として祀る社が創設されたようで、これが御殿場東照宮と呼ばれた。

江戸時代前期の寛永10年(1633年)、御殿場の地は小田原藩領に組み込まれ、小田原城主稲葉氏が巡検や鷹狩に御殿を利用した。

また、慶安4年(1651年)から4年の歳月を費やして大修理を行なわれた。しかし、稲葉氏の次に小田原藩主となった大久保氏により、貞享3年(1686年)、御殿は取り壊された。

その後、当社は御殿場東照宮を合祀。以上の経緯により、当社境内には「御殿場発祥の地」の碑が建てられている。また、境内では現在でも土塁の一部を見ることができる。

御祭神は、日本武尊弟橘姫命。例祭は4月上旬で吾妻祭などとも。400年の伝統ある大祭とされ、神輿巡幸などがある。

当世話人、古世話人、御加締という「三役制度」という風習があり、当地氏子の長男、20-30代の男性が9年間勤め、大祭に奉仕する。日本に唯一残る制度だという。

御殿場は、鎌倉時代に源頼朝が市内の神明宮で蹴鞠をしたと伝わる蹴鞠ゆかりの地で、大祭期間中、当社境内では蹴鞠が奉納される。

当日、官人装束姿にえぼし姿の蹴り手が「アリャ」「オウ」のかけ声とともに蹴鞠を披露する。

11月最終土曜日には御殿場高尾祭が行われる。高尾山穂見神社が中心だが、当社境内でも縁起物の熊手の店をはじめ、多くの店が立ち並び、夜通し活気に溢れる。

【ご利益】
商売繁盛、家内安全、地域安全、無病息災
吾妻神社 静岡県御殿場市御殿場
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