頼朝が鎌倉入り前夜に宿泊した相辺沢の諏訪明神、瀬谷鎮守
[住所]神奈川県横浜市瀬谷区相沢3-24-1
[電話]045-301-1306
諏訪社(すわしゃ)は、神奈川県横浜市瀬谷区相沢にある神社。瀬谷諏訪社とも。御朱印の有無は不明。
創建年代は不詳だが、平安時代末期の治承4年(1180年)10月5日、源頼朝が当社に宿泊したと伝わる。
それによれば、同年8月23日-26日、石橋山に兵を挙げ敗れた頼朝は房総に逃れた。その後、東国各地の源氏の兵力を集め、10月6日に鎌倉入りする。
その前夜、武蔵より相模に入り、瀬野郷(瀬谷郷)の相辺沢の鎮守諏訪明神に一泊した。
翌日、郷士相辺沢六郎義氏、相辺沢七郎義村の先導で、隣村の飯田家義とともに、俣野村で俣野五郎景久・大庭景親を破り、鎌倉に入り、武家政治の基を築いたという。
建久3年(1192年)、頼朝は報恩のためか、当社に水田五反歩を寄進したという。また、戦国時代の天文12年(1543年)11月に社殿再建の記録が残る。
御祭神は建御名方神。『新編相模国風土記稿』瀬谷村の条にも「諏訪社」と記載されている。瀬谷村では、八幡社・日枝社・左馬社とともに村の鎮守として崇敬されたという。
なお、八幡社・日枝社・左馬社は現在、当社が兼務している。
精巧緻密な彫刻をほどこした総神殿造りの中宮が現存する。この土台の内部には江戸時代後期の天保12年(1841年)11月1日再建と書かれている。
この中宮は本殿に納められ、中に御神体が安置されている。また、文化14年(1817年)の灯籠、文久元年(1861年)の手水鉢なども残る。
現社殿は昭和43年(1968年)の改築である。境内には大六天、三峰社などが合祀され、大六天の石祠には寛政元年(1789年)銘が残る。
他に、明治27年(1894年)の狛犬一対、昭和41年(1966年)の手水鉢、平成12年(2000年)奉納の灯籠2基などがある。
例祭は9月第1日曜日。宵祭りは神楽殿で演芸が、境内で出店が軒を並べ、大勢の人出で賑わう。当日は、各町内8基の子ども神輿が境内に勢揃い、町内を練り歩く。
【ご利益】
商売繁盛、身体壮健、無病息災、武運長久・勝運(公式HP)

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諏訪社(すわしゃ)は、神奈川県横浜市瀬谷区相沢にある神社。瀬谷諏訪社とも。御朱印の有無は不明。
創建年代は不詳だが、平安時代末期の治承4年(1180年)10月5日、源頼朝が当社に宿泊したと伝わる。
それによれば、同年8月23日-26日、石橋山に兵を挙げ敗れた頼朝は房総に逃れた。その後、東国各地の源氏の兵力を集め、10月6日に鎌倉入りする。
その前夜、武蔵より相模に入り、瀬野郷(瀬谷郷)の相辺沢の鎮守諏訪明神に一泊した。
翌日、郷士相辺沢六郎義氏、相辺沢七郎義村の先導で、隣村の飯田家義とともに、俣野村で俣野五郎景久・大庭景親を破り、鎌倉に入り、武家政治の基を築いたという。
建久3年(1192年)、頼朝は報恩のためか、当社に水田五反歩を寄進したという。また、戦国時代の天文12年(1543年)11月に社殿再建の記録が残る。
御祭神は建御名方神。『新編相模国風土記稿』瀬谷村の条にも「諏訪社」と記載されている。瀬谷村では、八幡社・日枝社・左馬社とともに村の鎮守として崇敬されたという。
なお、八幡社・日枝社・左馬社は現在、当社が兼務している。
精巧緻密な彫刻をほどこした総神殿造りの中宮が現存する。この土台の内部には江戸時代後期の天保12年(1841年)11月1日再建と書かれている。
この中宮は本殿に納められ、中に御神体が安置されている。また、文化14年(1817年)の灯籠、文久元年(1861年)の手水鉢なども残る。
現社殿は昭和43年(1968年)の改築である。境内には大六天、三峰社などが合祀され、大六天の石祠には寛政元年(1789年)銘が残る。
他に、明治27年(1894年)の狛犬一対、昭和41年(1966年)の手水鉢、平成12年(2000年)奉納の灯籠2基などがある。
例祭は9月第1日曜日。宵祭りは神楽殿で演芸が、境内で出店が軒を並べ、大勢の人出で賑わう。当日は、各町内8基の子ども神輿が境内に勢揃い、町内を練り歩く。
【ご利益】
商売繁盛、身体壮健、無病息災、武運長久・勝運(公式HP)

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