道真自作の御神体の一つ日本三躰、江戸期には出開帳、将軍も奉拝
[住所]神奈川県横浜市港南区上永谷5-1-5
[電話]045-844-7244
永谷天満宮(ながやてんまんぐう)は、神奈川県横浜市港南区上永谷にある神社。近代社格では村社。神奈川県神社庁には天神社(てんじんしゃ)として登録されている。参拝すれば、御朱印を頂ける。
大宰府に左遷された菅原道真が、自身を鏡に映して自ら彫ったと伝わる高さ1寸8分(6センチ弱)の尊像3体のうち、1体を御神体として安置する。
他の2体のうち1体は、道真の墓がある太宰府の安楽寺(太宰府天満宮)、もう1体は出生地である河内国土師郷の先祖代々の菩提寺である道明寺(道明寺天満宮)に安置されている。
これらを「日本三躰天神」と称し、当宮も「日本三躰 永谷天満宮」としている。
『新編相模国風土記稿』によれば、この道真像は道真左遷に伴い、播磨国へ流刑となった道真五男の菅秀才こと淳茂に与えられたものだという。
淳茂は後に関東へ下向し、相模国鎌倉郡永谷郷に居館を構えて、道真像を奉祀したといわれている。その居館跡が貞昌院で、当社の別当だった。
淳茂は朝夕に当社向背の天神山の山頂に立ち、遥か西方の太宰府に向かって父を思慕したと伝わる。その場所が菅秀塚として今に伝わっている。淳茂の遺髪を納めたとも。
戦国時代の明応2年(1493年)2月、道真像が時の永谷郷領主宅間上杉家の上杉乗国に霊夢となって現れ、これを畏れた乗国が社殿を造営し、道真像を御神体として安置したのが当宮の始まり。
天文12年(1543年)には宅間伊織之亮、藤原綱頼が社を修造し、天正10年(1582年)には藤原規富(宅間規富)が社を造営した。
往時は鎌倉8ヶ郷の総社とも呼ばれ、関東天満宮とも称された。鎌倉8ヶ郷内にある80あまりの末社の神官祭事を勤める慣例だったという。
江戸時代、幕府が学問を奨励したことで、当宮も崇敬され、10代将軍徳川家治の時、天明元年(1781年)から御神体を神輿に載せて江戸城に入城、将軍自ら恭しく奉拝したと伝わる。
享和3年(1803年)正月、不慮の火災により社殿が焼失。貞昌院第16世徹玄岷州が再建を志したが即世し、嗣僧大輝がその志を継承して文化2年(1805年)に再建した。
明治6年(1873年)、村社に列し、明治44年(1911年)4月30日には神饌幣帛料供進社に指定された。大正12年(1923年)の関東大震災では、本殿、覆殿、幣殿などが倒壊、その後に修復した。
昭和62年(1987年)、氏子崇敬者の奉賛もあり、御祭神薨後1088年記念事業として、現在の社殿が完成した。
例祭は9月25日で例大祭、秋季例祭。12年に一度の丑年に式年大祭を挙行し、御神体である道真像を開帳する。
その他の年でも、子供みこし渡御やお囃子、奉納演芸大会などの様々な神賑行事が執り行われる。1月25日が初天神、12月25日が納天神。
境内社に末社一宇、白糸社、稲荷社、白山社、澤滝社が祀られている。
参道に安置されている神牛像は、昭和57年(1982年)、その時から数年後の丑年大祭に備え、多数の協賛を得て奉献されたもの。
【ご利益】
学業・受験合格、病気平癒、諸願成就(公式HP)

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永谷天満宮(ながやてんまんぐう)は、神奈川県横浜市港南区上永谷にある神社。近代社格では村社。神奈川県神社庁には天神社(てんじんしゃ)として登録されている。参拝すれば、御朱印を頂ける。
大宰府に左遷された菅原道真が、自身を鏡に映して自ら彫ったと伝わる高さ1寸8分(6センチ弱)の尊像3体のうち、1体を御神体として安置する。
他の2体のうち1体は、道真の墓がある太宰府の安楽寺(太宰府天満宮)、もう1体は出生地である河内国土師郷の先祖代々の菩提寺である道明寺(道明寺天満宮)に安置されている。
これらを「日本三躰天神」と称し、当宮も「日本三躰 永谷天満宮」としている。
『新編相模国風土記稿』によれば、この道真像は道真左遷に伴い、播磨国へ流刑となった道真五男の菅秀才こと淳茂に与えられたものだという。
淳茂は後に関東へ下向し、相模国鎌倉郡永谷郷に居館を構えて、道真像を奉祀したといわれている。その居館跡が貞昌院で、当社の別当だった。
淳茂は朝夕に当社向背の天神山の山頂に立ち、遥か西方の太宰府に向かって父を思慕したと伝わる。その場所が菅秀塚として今に伝わっている。淳茂の遺髪を納めたとも。
戦国時代の明応2年(1493年)2月、道真像が時の永谷郷領主宅間上杉家の上杉乗国に霊夢となって現れ、これを畏れた乗国が社殿を造営し、道真像を御神体として安置したのが当宮の始まり。
天文12年(1543年)には宅間伊織之亮、藤原綱頼が社を修造し、天正10年(1582年)には藤原規富(宅間規富)が社を造営した。
往時は鎌倉8ヶ郷の総社とも呼ばれ、関東天満宮とも称された。鎌倉8ヶ郷内にある80あまりの末社の神官祭事を勤める慣例だったという。
江戸時代、幕府が学問を奨励したことで、当宮も崇敬され、10代将軍徳川家治の時、天明元年(1781年)から御神体を神輿に載せて江戸城に入城、将軍自ら恭しく奉拝したと伝わる。
享和3年(1803年)正月、不慮の火災により社殿が焼失。貞昌院第16世徹玄岷州が再建を志したが即世し、嗣僧大輝がその志を継承して文化2年(1805年)に再建した。
明治6年(1873年)、村社に列し、明治44年(1911年)4月30日には神饌幣帛料供進社に指定された。大正12年(1923年)の関東大震災では、本殿、覆殿、幣殿などが倒壊、その後に修復した。
昭和62年(1987年)、氏子崇敬者の奉賛もあり、御祭神薨後1088年記念事業として、現在の社殿が完成した。
例祭は9月25日で例大祭、秋季例祭。12年に一度の丑年に式年大祭を挙行し、御神体である道真像を開帳する。
その他の年でも、子供みこし渡御やお囃子、奉納演芸大会などの様々な神賑行事が執り行われる。1月25日が初天神、12月25日が納天神。
境内社に末社一宇、白糸社、稲荷社、白山社、澤滝社が祀られている。
参道に安置されている神牛像は、昭和57年(1982年)、その時から数年後の丑年大祭に備え、多数の協賛を得て奉献されたもの。
【ご利益】
学業・受験合格、病気平癒、諸願成就(公式HP)

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