霧島神宮の旧地、天孫降臨の地、神籬斎場、11月に御神火祭
[住所]鹿児島県霧島市霧島田口高千穂河原
[電話]0995-57-0001

霧島神宮古宮址(きりしまじんぐうふるみやあと)は、鹿児島県霧島市霧島田口高千穂河原にある霧島神宮の旧地である。古宮址単独の御朱印はないと思われる。

鹿児島県霧島市に所在する霧島山の中岳と御鉢との谷間にある高千穂河原(たかちほがわら)にある。霧島神宮跡とも。

古墳時代後期、第29代欽明天皇(在位:540年-571年)の御世、矛峰と呼ばれた高千穂峰と火常峰と呼ばれた御鉢の鞍部、脊門丘に社殿が建立された。

活火山の隣に鎮座したため、噴火によりたびたび炎上した。奈良時代末期の延暦7年(788年)3月4日の御鉢噴火について、『続日本紀』」は下記のように記している。
去る三月四日戌の刻、大隅国の曽於郡曽乃峯で火炎が盛んに上がり、響きは雷のようであった。亥の刻におよんで火光はようやく止まり、ただ黒煙だけが見えるようになった。

そしてその後、砂が降り、山頂下五・六里は砂石が積もり、二尺にも及んでいるようだ。その色は黒い
この時の噴火により、脊門丘 霧島元宮は焼失した。平安時代の天暦年間(947年-957年)、性空上人がかつては瀬多尾越と呼ばれたこの高千穂河原に社殿を遷した。

しかし、鎌倉時代の文暦元年(1234年)の御鉢噴火でこれも焼失。この時の被害で、当地一帯の寺社の什宝、文書などを失ったという。

この時の噴火で御鉢は一気に100メートル以上高くなった、という。その噴出物が高原スコリアで、高原町狭野神社付近では1メートル程度の厚さで堆積した。

霧島神宮から高千穂河原に至る県道沿いで観察できる溶岩の一部もこの時のもの。その後、一旦瀬多尾越から、長尾山の東霧島神社に遷座した。

戦国時代の文明16年(1484年)、島津第11代当主島津忠昌の命により、社を東西に分け、東社を現在の宮崎県高原町の霧島東神社、西社を鹿児島県霧島町の霧島神宮として建立した。

以降、当地は古宮址と呼ばれるようになった。江戸時代、薩摩藩編纂の『三国名勝図会』では、「(往時は)高千穂神社と称しただろうかという」とも書かれている。

当地は当然のことながら、いわゆる霧島山を巡るように鎮座する霧島六社権現と呼ばれる六つの神社の、中心に相当することになる。

昭和15年(1940年)、皇紀2600年記念事業の一つとして、天孫降臨神籬斎場(てんそんこうりんひもろぎさいじょう)が整備された。

昭和33年(1958年)、駐車場が整備され霧島山の観光拠点の一つとなった。昭和37年(1962年)5月6日、当時の皇太子明仁親王と皇太子妃美智子が訪れた。

現在は、霧島神宮の飛び地境内である。なお、当古宮址がある高千穂河原は、標高は970メートル、アカマツなどの林に囲まれている。

ここから中岳・新燃岳方面および御鉢・高千穂峰方面への登山道が延びており、霧島山登山拠点の一つ。

周辺にはミヤマキリシマ群生地を巡る散策路やキャンプ場などが整備されており、霧島山に関する情報を提供するビジターセンターや売店などがある。

車のナビに「高千穂河原ビジターセンター」と入力すると到着できる。当地の各施設は自然公園財団によって管理運営されている。

霧島神宮の由緒通り、当地は「天孫降臨」の現場そのものとされ、パワースポットとして人気が高い。

毎年11月10日夕刻、天孫降臨御神火祭が開催される。これは天孫降臨の道標として火を焚いて邇邇芸命を迎えた故事にちなむもの。

御神火が焚かれ、天孫降臨九面太鼓が奉納される。

【ご利益】
リフレッシュ、諸願成就
霧島神宮古宮址 鹿児島県霧島市霧島田口高千穂河原
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