旧地名「子ノ神」の由来、集落の守護神、江戸中期の道標
[住所]東京都目黒区南2-1-40
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高木神社(たかぎじんじゃ)は、東京都目黒区南にある神社。御朱印の有無は不明。

子ノ神は、明治22年(1889年)の町村制施行以前の碑文谷村の小字名で、今日の南1丁目から3丁目一帯が、およそその地域に当たる。

なお、南1丁目のごく一部の地域には、明治22年以降もこの地名が残っていたが、昭和7年(1932年)の目黒区誕生を機に姿を消した。

この子ノ神という地名は当社に由来する。当社の創建年代は不詳。そもそも当社はその昔、現在の社地の隣にあった屋敷神だったという。

いつの頃からか、現在地に遷され、江戸時代には碑文谷村子之神集落の守護神として、第六天社と称していた。

『新編武蔵風土記稿』碑文谷村の条にも「第六天社」とあり、別当は円融寺の塔頭神宮寺だったという。

子ノ神については、諸説ある。「子」とは、十二支の「子」、したがって生産の神であり、台所の神で、ねずみを神の使いとする大国主命(大黒様)という説。

もう一つには、主屋の鬼門よけに子の方角(北)に祀られた神。最後の一つは、神代の根の国の神で、農村では水の神とも考えられていた第六天、というもの。

実際、地名の子ノ神を「根ノ神」と書いた例も多く見られたという。しかし、明治になり、現社号に改称され、当社の御祭神は大己貴命(大国主命)となった。

大国主命説が採られたように見える。しかし、明治から大正時代にかけて、太鼓をたたき、題目を唱えて、雨乞いをする行事が毎年のように行われていたという。

つまり、子ノ神を第六天と信じ切っていた、ということ。大国主命と第六天が入り交じっていたようで、また、往時には高皇産霊神も祀られたという。

当時、当社の入口に湧水池があり、前方一帯が水田となっていて、境内の入口を「せいのかみど」といって、正月の塞の神(ドンド焼)が行われていたという。

境内には、環七道路建設により移設された、江戸時代中期の天明8年(1788年)刻名の角柱文字塔型道標が保存されている。

拝殿前には昭和4年(1929年)10月に建立された江戸流れの狛犬がある。なお、当社裏には縄文時代中期と考えられている包蔵地が確認されている。

【ご利益】
祈雨・天候、五穀豊穣・商売繁盛、病気平癒、地域安全
高木神社 東京都目黒区南
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