いわゆる下り宮の「逆さ大門」、夫人の崇敬、興味深い狛犬二対
[住所]神奈川県川崎市麻生区細山2ー6ー1
[電話]044-911-8051 - 登戸稲荷社
神明社(しんめいしゃ)は、神奈川県川崎市麻生区細山にある神社。近代社格では村社。細山神明社(ほそやましんめいしゃ)とも。現在は登戸稲荷社の兼務社である。御朱印の有無は不明。
創建年代は不詳だが、鎌倉時代から祀られていると伝えられている。旧細山村の鎮守として崇敬された。
『新編武蔵風土記稿』細山村の条にも「神明社」と記載される。「字大久保の内丘の邊なるくぼき所に在、村の鎮守なり、鎮座の年代をしらず」などとある。
また、『新編武蔵風土記稿』では当社の代名詞として、「逆大門」を紹介している。
普通、神社は鳥居をくぐって石段を上り、社殿に到るように建てられているが、当社の場合、鳥居が丘の上にあって、坂の下に社殿が位置している。
下り宮などともいうが、これを「逆さ大門」と呼ぶ。あまりその縁起が残されていることは少ないが、当社には下記のような伝承が残る。
当初、当社を建築した時、社殿は東向きだったが、一夜にして西向きに変わってしまった。村人は不思議に思いながらも東向きに戻し。
しかし、夜が明けるとまた西向きに変わっていた。そんなことが三度も続いたある夜、名主の夢枕に神が立った。
そして、「村の鎮護のためには西の伊勢の方向へ向けよ、大門が逆になっても良い」というお告げがあった。
以来、社殿は西向きになり、大門は逆にならざるを得なくなったという。この「逆さ大門」は関東に三社あるとされ、当社はその一社。
もう一社は、日本三大下り宮の一つである、群馬県富岡市の一之宮貫前神社だろうが、もう一社は不明。日本三大下り宮の残り二つは、九州に集中している。
当社は古くから吹き出物や下の病気に悩む人々の信仰が盛んで、絵馬を奉納したり、藁ヅトにいれた蛤を神前に供えたという。
拝殿には今も、東京都下をはじめ近郷の人々から奉納された、婦人が拝んでいる姿や蛤の絵が描かれ絵馬が数多く懸けられている。
また、かつて境内には参拝すると乳が出るという瘤のついた大榊があったという。
明治6年(1873年)、村社に列し、明治44年(1911年)には村内北谷の稲荷社、南田の杉山社、大久保の秋葉社、向原の春日社、金程村の杉山社などを合祀した。
村内北谷の稲荷社、南田の杉山社、金程村の杉山社はいずれも『新編武蔵風土記稿』に記載されており、杉山二社は、杉山神社72社の二つに該当する。
当社の主祭神は天照大神。相殿に、倉稲魂神・児屋根命・五十猛命・猿田彦命を祀る。例祭は9月24日。前日の23日が夜宮。
ただ、現在は10月初旬などに例大祭が行われ、多くの地域住民らが境内に集結し、神輿を宮出し。担ぎ手の威勢のいい掛け声やお囃子、太鼓の音ともに周辺地域を巡行するという。
この神輿は、昭和5年(1930年)から東京都荒川区町屋新地町会の鎮守である諏訪神社の祭礼に用いられたもの。
その後、昭和46年(1971年)、細山坂東御岳神社に奉納されたが、管理・運営面を考慮し、平成20年(2008年)、当社に奉納されたもので、伝統的に担ぎ継がれているという。
境内には、クスノキやクロマツ、スギの木々があり、御神木として祀られている。クスノキが川崎市選定「まちの樹50選」に選ばれている。
また、社殿の横には、一説に江戸時代中期の宝暦年間(1751年-1764年)に作られたとされる庚申塚がある。
当社には興味深い狛犬二対がある。一対は、現存するものとしては市最古、江戸時代後期の文政4年(1821年)のもの。
もう一対は、昭和3年(1928年)のものであるが、石工の吉澤耕石の手による、非常にユニークな、一部に「マンガチックな」と評されるものがある。
当社の近くには五反田川が流れており、この川には、源義経と弁慶などとも関連する二枚橋(にまいばし)がかかっている。
【ご利益】
開運招福、家内安全、地域安全

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[電話]044-911-8051 - 登戸稲荷社
神明社(しんめいしゃ)は、神奈川県川崎市麻生区細山にある神社。近代社格では村社。細山神明社(ほそやましんめいしゃ)とも。現在は登戸稲荷社の兼務社である。御朱印の有無は不明。
創建年代は不詳だが、鎌倉時代から祀られていると伝えられている。旧細山村の鎮守として崇敬された。
『新編武蔵風土記稿』細山村の条にも「神明社」と記載される。「字大久保の内丘の邊なるくぼき所に在、村の鎮守なり、鎮座の年代をしらず」などとある。
また、『新編武蔵風土記稿』では当社の代名詞として、「逆大門」を紹介している。
普通、神社は鳥居をくぐって石段を上り、社殿に到るように建てられているが、当社の場合、鳥居が丘の上にあって、坂の下に社殿が位置している。
下り宮などともいうが、これを「逆さ大門」と呼ぶ。あまりその縁起が残されていることは少ないが、当社には下記のような伝承が残る。
当初、当社を建築した時、社殿は東向きだったが、一夜にして西向きに変わってしまった。村人は不思議に思いながらも東向きに戻し。
しかし、夜が明けるとまた西向きに変わっていた。そんなことが三度も続いたある夜、名主の夢枕に神が立った。
そして、「村の鎮護のためには西の伊勢の方向へ向けよ、大門が逆になっても良い」というお告げがあった。
以来、社殿は西向きになり、大門は逆にならざるを得なくなったという。この「逆さ大門」は関東に三社あるとされ、当社はその一社。
もう一社は、日本三大下り宮の一つである、群馬県富岡市の一之宮貫前神社だろうが、もう一社は不明。日本三大下り宮の残り二つは、九州に集中している。
当社は古くから吹き出物や下の病気に悩む人々の信仰が盛んで、絵馬を奉納したり、藁ヅトにいれた蛤を神前に供えたという。
拝殿には今も、東京都下をはじめ近郷の人々から奉納された、婦人が拝んでいる姿や蛤の絵が描かれ絵馬が数多く懸けられている。
また、かつて境内には参拝すると乳が出るという瘤のついた大榊があったという。
明治6年(1873年)、村社に列し、明治44年(1911年)には村内北谷の稲荷社、南田の杉山社、大久保の秋葉社、向原の春日社、金程村の杉山社などを合祀した。
村内北谷の稲荷社、南田の杉山社、金程村の杉山社はいずれも『新編武蔵風土記稿』に記載されており、杉山二社は、杉山神社72社の二つに該当する。
当社の主祭神は天照大神。相殿に、倉稲魂神・児屋根命・五十猛命・猿田彦命を祀る。例祭は9月24日。前日の23日が夜宮。
ただ、現在は10月初旬などに例大祭が行われ、多くの地域住民らが境内に集結し、神輿を宮出し。担ぎ手の威勢のいい掛け声やお囃子、太鼓の音ともに周辺地域を巡行するという。
この神輿は、昭和5年(1930年)から東京都荒川区町屋新地町会の鎮守である諏訪神社の祭礼に用いられたもの。
その後、昭和46年(1971年)、細山坂東御岳神社に奉納されたが、管理・運営面を考慮し、平成20年(2008年)、当社に奉納されたもので、伝統的に担ぎ継がれているという。
境内には、クスノキやクロマツ、スギの木々があり、御神木として祀られている。クスノキが川崎市選定「まちの樹50選」に選ばれている。
また、社殿の横には、一説に江戸時代中期の宝暦年間(1751年-1764年)に作られたとされる庚申塚がある。
当社には興味深い狛犬二対がある。一対は、現存するものとしては市最古、江戸時代後期の文政4年(1821年)のもの。
もう一対は、昭和3年(1928年)のものであるが、石工の吉澤耕石の手による、非常にユニークな、一部に「マンガチックな」と評されるものがある。
当社の近くには五反田川が流れており、この川には、源義経と弁慶などとも関連する二枚橋(にまいばし)がかかっている。
【ご利益】
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