南北朝期の棟札、太田総鎮守で、安産の神・横浜水天宮を合祀
[住所]神奈川県横浜市南区南太田2-7-29
[電話]045-731-0668
杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、神奈川県横浜市南区南太田にある神社。近代社格では村社。太田杉山神社とも。現在は横浜水天宮(横濱水天宮)として知られる。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。都筑郡吉田村、現在の港北区新吉田に鎮座する杉山神社を勧請したものと考えられている。当地住民の産生神として崇敬された。
南北朝時代の永和2年 (1376年)6月銘の棟札があったことから、それ以前には存在していたことになる。その棟札には、益田大江助の名が記されていた。
『新編武蔵風土記稿』太田村の条に、「杉山明神社」とあり、「村の鎮守」で、「神体は束帯の形にて長五寸許、本地は薬師なり」などとある。杉山神社72社の一つ。
別当は大光院で、「本社の左右に天神稲荷の二社あり」とある。この天神社は徳川氏の家祖に当る親氏が、諸国流浪中、この太田の地にとどまり、勧請したもの。
同氏が当地を去る際、ここに譲り置かれたもので、徳川天満自在天神と呼ばれた。
また、「又社殿の山に太神宮金毘羅の二宇あり」と記載されている。文化7年(1810年)、社殿造営と同時に社の後、山上の大神宮・金刀比羅宮の二社を合祀した。
明治維新前は杉山大明神と称したが、明治2年(1869年)、現社号に改称し、明治6年(1873年)12月には村社に列した。
明治23年(1890年)、氏子区域内の無格社日枝神社を合併、明治41年(1908年)9月には同じく無格社浅間神社、東神社、稲荷社二社を合併、合祀した。
東神社はもと東耕地にあって大神宮と称したが、谷戸耕地に移転の時から旧地名をとって東神社としたもの。
また、この際合祀した稲荷二社と、『新編武蔵風土記稿』記載の稲荷社、つまり現境内末社の長者稲荷大明神は、太田稲荷三社と総称された。
大正10年(1921年)、神饌幣帛料供進社に指定された。昭和20年(1945年)5月29日、戦災により社殿や社務所を全焼、同時に永和2年の棟札も焼失した。
昭和32年(1957年)8月、社殿の復興造営が竣工、昭和33年(1958年)12月には神楽殿、社務所を新築、竣工した。
平成10年(1998年)、水天宮を合祀した。この水天宮は、貞亨年間(1684年-1688年)に筑後国久留米より現在の横浜長者町あたりに勧請されたもの。
この水天宮は、お三の宮日枝神社の由緒でも詳細に伝えられている、吉田新田開発の際、たびたび水害に悩まされたため、水害の守護神として尊崇された。
明治の初め、河野与七がこの地を開拓する際に御神体を発見し、社殿を建立して再興、安産・子育ての守護神として広く関東一円より人々の信仰を集めたという。
昭和20年(1945年)の戦火で、水天宮も全焼、米進駐軍により境内も接収されたため、南区西仲町の河野与七の子孫の屋敷に、仮社殿を建築し奉斎されていた。
以上の経緯を経て、御祭神は日本武尊・天照皇大神・大物主神・崇徳天皇・豊受比売神・菅原道真・大山咋神・木花咲耶姫命・天照皇大神・稲倉魂命・宇気母智命と、多岐にわたる。
また、相殿として水天宮を祀り、その御祭神は、天御中主神・安徳天皇・建礼門院・二位の尼となる。
例祭は8月24日で例大祭。8月には「一心泣き相撲」が開催される。戌の日参りや安産祈願、子育ての守護神として、崇敬されている。
なお、当社は舞岡八幡宮などを兼務している。
【ご利益】
安産、子育て、無病息災・身体壮健、地域安全、家内安全(公式HP)
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・杉山神社とは? - 横浜・川崎・町田に集中、『新編武蔵風土記稿』には72社
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杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、神奈川県横浜市南区南太田にある神社。近代社格では村社。太田杉山神社とも。現在は横浜水天宮(横濱水天宮)として知られる。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。都筑郡吉田村、現在の港北区新吉田に鎮座する杉山神社を勧請したものと考えられている。当地住民の産生神として崇敬された。
南北朝時代の永和2年 (1376年)6月銘の棟札があったことから、それ以前には存在していたことになる。その棟札には、益田大江助の名が記されていた。
『新編武蔵風土記稿』太田村の条に、「杉山明神社」とあり、「村の鎮守」で、「神体は束帯の形にて長五寸許、本地は薬師なり」などとある。杉山神社72社の一つ。
別当は大光院で、「本社の左右に天神稲荷の二社あり」とある。この天神社は徳川氏の家祖に当る親氏が、諸国流浪中、この太田の地にとどまり、勧請したもの。
同氏が当地を去る際、ここに譲り置かれたもので、徳川天満自在天神と呼ばれた。
また、「又社殿の山に太神宮金毘羅の二宇あり」と記載されている。文化7年(1810年)、社殿造営と同時に社の後、山上の大神宮・金刀比羅宮の二社を合祀した。
明治維新前は杉山大明神と称したが、明治2年(1869年)、現社号に改称し、明治6年(1873年)12月には村社に列した。
明治23年(1890年)、氏子区域内の無格社日枝神社を合併、明治41年(1908年)9月には同じく無格社浅間神社、東神社、稲荷社二社を合併、合祀した。
東神社はもと東耕地にあって大神宮と称したが、谷戸耕地に移転の時から旧地名をとって東神社としたもの。
また、この際合祀した稲荷二社と、『新編武蔵風土記稿』記載の稲荷社、つまり現境内末社の長者稲荷大明神は、太田稲荷三社と総称された。
大正10年(1921年)、神饌幣帛料供進社に指定された。昭和20年(1945年)5月29日、戦災により社殿や社務所を全焼、同時に永和2年の棟札も焼失した。
昭和32年(1957年)8月、社殿の復興造営が竣工、昭和33年(1958年)12月には神楽殿、社務所を新築、竣工した。
平成10年(1998年)、水天宮を合祀した。この水天宮は、貞亨年間(1684年-1688年)に筑後国久留米より現在の横浜長者町あたりに勧請されたもの。
この水天宮は、お三の宮日枝神社の由緒でも詳細に伝えられている、吉田新田開発の際、たびたび水害に悩まされたため、水害の守護神として尊崇された。
明治の初め、河野与七がこの地を開拓する際に御神体を発見し、社殿を建立して再興、安産・子育ての守護神として広く関東一円より人々の信仰を集めたという。
昭和20年(1945年)の戦火で、水天宮も全焼、米進駐軍により境内も接収されたため、南区西仲町の河野与七の子孫の屋敷に、仮社殿を建築し奉斎されていた。
以上の経緯を経て、御祭神は日本武尊・天照皇大神・大物主神・崇徳天皇・豊受比売神・菅原道真・大山咋神・木花咲耶姫命・天照皇大神・稲倉魂命・宇気母智命と、多岐にわたる。
また、相殿として水天宮を祀り、その御祭神は、天御中主神・安徳天皇・建礼門院・二位の尼となる。
例祭は8月24日で例大祭。8月には「一心泣き相撲」が開催される。戌の日参りや安産祈願、子育ての守護神として、崇敬されている。
なお、当社は舞岡八幡宮などを兼務している。
【ご利益】
安産、子育て、無病息災・身体壮健、地域安全、家内安全(公式HP)
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