推古朝の時に聖徳太子が創建、ナマズと福禄寿・弁財天
[住所]群馬県邑楽郡板倉町2334
[電話]0276-82-0007

雷電神社(らいでんじんじゃ)は、群馬県邑楽郡板倉町にある神社。近代社格では郷社。板倉雷電神社(いたくららいでんじんじゃ)とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。

主に関東地方に点在する雷電神社・雷電社の事実上の総本社格である。茨城県水戸市の別雷皇太神、同県つくば市の金村別雷神社とともに関東三雷神の一社とされる。

現在の主祭神は、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)、大雷大神(おおいかづちのおおかみ)、別雷大神(わけいかづちのおおかみ)の3柱。

火雷大神・大雷大神は伊邪那美大神から生じた八雷神の2柱。別雷大神は京都市の賀茂別雷神社で祀られる神と同神か。

創建は、社伝によると第33代推古天皇6年(598年)で、当時は伊奈良(いなら) の沼と呼ばれる湿地に浮かぶ小島であったこの地に、聖徳太子が神の声を聞き、祠を設けたという。

延暦20年(801年)、東征した坂上田村麻呂が社殿を造営したところ、その宮祭の夜、境内にあった杉の木の梢に沼の中から灯が上ってきて闇を照らした。

現在、境内東側で枯れて幹の一部から下のみを残す「龍灯の杉」に纏わる伝説として語り継がれている。

境内裏手に、室町時代建立の県内最古の神社建築があり、現在は末社・八幡宮稲荷神社の社殿である。国の重要文化財に指定されている。

江戸時代前期の延宝2年(1674年)、当地を治めていた館林藩の藩主だった徳川綱吉が本社社殿を再建した。社殿に徳川家の三ツ葉葵の紋を使うことが許された。

後に綱吉が5代将軍となると、当社も次第に繁栄するようになった。ある時、江戸に大雷があった。綱吉は、あまりに急いだため、履物を履いたまま御殿に逃げ上がった。

お供の家来の一人が一緒に履物を履いたまま御殿に駆け上がってしまったた。綱吉はこれを見て、なかなか忠義な者よと、この者を誉め、大層な身分に取り立てたという。

現在の本社社殿は江戸時代後期の天保6年(1835年)のもの。左甚五郎から10代目の石原常八の作とされる彫刻がある。

本社社殿裏手にある奥社には伊邪那美大神が祀られ、家内円満・子授け・安産・縁結びなどを叶える女神とされている。奥社社殿は幕末の慶応4年(1868年)の造営。

本社社殿、奥社社殿とも現在は県の重要文化財に指定されている。

本殿は、正面の真ん中に一本柱が立ち、その左右に扉が付くという、全国で7ヶ所しかないものだという。大いなる雷電様の力が外に出ないようにし、その力を恵んでもらうためのもの。

明治時代は郷社に列した。今日では雷除けはもとより、氷嵐除けや豊作祈願、厄除けや安全、特に電気関係をはじめとする諸工事の安全の神として名高い。

また、毎年5月の大型連休中の例祭である雷電大祭や、春の蝋梅(ろうばい)および椿が美しい神社としても有名である。

例祭以外にも主に企業関係者による安全祈願や商売繁盛の祈祷の依頼が多く、5月中旬から初秋までの雷雨の季節を中心に頻繁に行われている。

およそ5月6日から15日までの間だけ、なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)の、真っ白い爽やかな花が、樹を雪が覆ったように咲く風景が見られる。

境内裏手の別棟に置かれている鯰(ナマズ)の石像は「なまずさん」と呼ばれ、撫でると地震を除け、元気回復・視力改善・自信が湧き出る、などのご利益があるという。

また、門前では郷土料理として、鯰料理が名物となっている。

1月3日から31日の10時から16時まで、館林名所七所七福神めぐりが行われる。当社は福禄寿で、人望の徳。子孫繁栄、金運、長寿の恵み。

そのため、境内の椿の庭には福禄寿の石像がある。この石像は、三つの幸せ(子孫繁栄・財産富裕・不老長寿)を授けるとされる。

また、社殿の東側にある駐車場に立って東を見ると、弁財天の御像がある。財宝富裕・音楽芸能・美人長命・開運招福の御神徳がある。

卵形の石があり、良いことを思いながら、優しくこれを撫でるとご利益がある。また、7月第2日曜日が美卵奉献の日で、鶏の卵一個が授与される。

なお、当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。

【ご利益】
操業安全、商売繁盛、地震除け、災害除け、火防(公式HP
雷電神社 群馬県邑楽郡板倉町
【関連記事】
関東三雷神とは? - 雷多発地帯として知られる北関東に鎮座する三つのカミナリ神社
詩でたどる日本神社百選 - 進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載された神社
群馬県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、群馬県に鎮座している神社の一覧
雷電神社 群馬県邑楽郡板倉町の御朱印