徳川家光の病を癒した将軍家御典医・岡本玄冶に下賜された稲荷
[住所]東京都中央区日本橋人形町3-8-6
[電話]-

橘稲荷神社(たちばないなりじんじゃ)は、東京都中央区日本橋人形町にある神社。御朱印の有無は不明。

都営浅草線「人形町駅」のA4出入り口の側。突拍子もなく歩道の上に鎮座しているようにも見える。扁額には「正一位橘神社」とある。

江戸時代はこのあたり、新泉町といわれたが、将軍家御典医だった岡本玄冶(おかもと げんや)の邸があった。

玄冶は、拝領屋敷を借家にして貸し出したことから、一帯は玄冶店(げんやだな)と呼ばれ、人形町通り側には跡地を示す石碑もある。

岡本玄冶(1587年-1645年)は江戸時代初期の医師。名は宗什、後に諸品、号は啓迪庵、院号は啓迪院。

慶長7年(1602年)、曲直瀬玄朔(まなせ げんさく)に入門、のちに女婿となった。2代道三と呼ばれる玄朔は、初代道三とともに日本医学中興の祖と称せられる。

玄冶は、玄朔の奥義をすべて伝授され、徳川家康に召されて、元和4年(1618年)年、法眼となった。

元和9年(1623年)、将軍家光について江戸に出、寛永4年(1627年)から10年間、江戸と京都を隔年に勤め、寛永5年(1628年)に法印となった。

京都では後水尾上皇、明正天皇の診察にあたった。寛永14年(1637年)、家光の病気を治して1000石の采地を与えられた。

当社はもとは御殿山にあったが、後に江戸城内へ移り、さらに玄冶に下賜され、当地へ移された。社名の橘は岡本家の姓にちなんだとされる。

幕末の安政6年(1860年)の「尾張屋清七板古地図」では、現在地よりやや北側に記されている。

数百年にわたり、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれてきた。特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれている。

大正以降、運よく震災・戦災を免れて来たが、老朽化のため、平成2年(1990年)、地元町民多数の浄財により再建された。

当社の御祭神は倉稲魂大神。右が阿形で持ち物はなし、左が吽形で巻物を咥えた狐像がある。

【ご利益】
病気平癒、商売繁盛、家内安全、地域安全
橘稲荷神社 東京都中央区日本橋人形町
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