太田道灌が創祀、相殿に諏訪明神とも、二通りの社号由来
[住所]東京都中央区日本橋小伝馬町9-1
[電話]-
千代田神社(ちよだじんじゃ)は、東京都中央区日本橋小伝馬町にある神社。御朱印の有無は不明。
長禄年間(1457年-1461年)、神霊により 太田特資道灌が御霊を千代田城(後の江戸城)に祀ったのが創祀だと伝わる。
江戸時代になり、第5代将軍徳川綱吉の時、太田の旧臣である長野亦四郎氏詞が奉じて小伝馬町に遷座したという。
その後、奉仕していた社人が窮困して、他に社地を譲渡した。以降、各種の異変が発生し、神慮だとされ、天明年間(1781年-1789年)、旧地に復した。
ただし、異説がある。『江戸名所図会』によれば、寛正年間(1460年-1466年)、太田道灌の弟千代田若狭守が勧請したため、千代田稲荷と呼ばれた。
その地は千代田村といったという。ただし、太田道灌の弟や親族に、千代田や若狭守は確認できない。また、渋谷区道玄坂・千代田区麹町・台東区台東・八王子市裏高尾町に千代田稲荷神社がある。
ともかく、それによれば、相殿に諏訪明神を勧請したという。『東京名所図会』には「稲荷諏訪兩神社合殿」と記載されている。
さらに『東京名所図会』によれば、「扁額には千代田、諏訪、八百田」の三社が書かれていたという。また、相殿は千代田稲荷の方との説も掲載されている。
この諏訪神は、以前は湯島郷に鎮座していたという。文明10年(1478年)、太田道灌がその地に天満宮を造営した時(湯島天神の再建か)、この諏訪神を忍か岡に遷したという。
この諏訪神の地に千代田稲荷が移され、社殿が建立されたとも。正保3年(1647年)2月初午、神事が執行されたという。
また、『東京名所図会』によれば、神事は神田神社により管理されていたという。別当は三寶院派教光院だったという。
大正12年(1923年)9月、関東大震災により焼失。昭和2年(1927年)、区画整理により、現在地に替地を得て、奉斎された。
昭和20年(1945年)3月、戦禍により再度焼失した。その後順次再建され、現状のような、小伝馬町ニ之部町会会館が併設されている形になった。
御祭神は、稲荷神としての倉稲魂命と、おそらく諏訪神。また、『東京名所図会』にある八百田については不詳。
【ご利益】
商売繁盛、地域安全、家内安全
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千代田神社(ちよだじんじゃ)は、東京都中央区日本橋小伝馬町にある神社。御朱印の有無は不明。
長禄年間(1457年-1461年)、神霊により 太田特資道灌が御霊を千代田城(後の江戸城)に祀ったのが創祀だと伝わる。
江戸時代になり、第5代将軍徳川綱吉の時、太田の旧臣である長野亦四郎氏詞が奉じて小伝馬町に遷座したという。
その後、奉仕していた社人が窮困して、他に社地を譲渡した。以降、各種の異変が発生し、神慮だとされ、天明年間(1781年-1789年)、旧地に復した。
ただし、異説がある。『江戸名所図会』によれば、寛正年間(1460年-1466年)、太田道灌の弟千代田若狭守が勧請したため、千代田稲荷と呼ばれた。
その地は千代田村といったという。ただし、太田道灌の弟や親族に、千代田や若狭守は確認できない。また、渋谷区道玄坂・千代田区麹町・台東区台東・八王子市裏高尾町に千代田稲荷神社がある。
ともかく、それによれば、相殿に諏訪明神を勧請したという。『東京名所図会』には「稲荷諏訪兩神社合殿」と記載されている。
さらに『東京名所図会』によれば、「扁額には千代田、諏訪、八百田」の三社が書かれていたという。また、相殿は千代田稲荷の方との説も掲載されている。
この諏訪神は、以前は湯島郷に鎮座していたという。文明10年(1478年)、太田道灌がその地に天満宮を造営した時(湯島天神の再建か)、この諏訪神を忍か岡に遷したという。
この諏訪神の地に千代田稲荷が移され、社殿が建立されたとも。正保3年(1647年)2月初午、神事が執行されたという。
また、『東京名所図会』によれば、神事は神田神社により管理されていたという。別当は三寶院派教光院だったという。
大正12年(1923年)9月、関東大震災により焼失。昭和2年(1927年)、区画整理により、現在地に替地を得て、奉斎された。
昭和20年(1945年)3月、戦禍により再度焼失した。その後順次再建され、現状のような、小伝馬町ニ之部町会会館が併設されている形になった。
御祭神は、稲荷神としての倉稲魂命と、おそらく諏訪神。また、『東京名所図会』にある八百田については不詳。
【ご利益】
商売繁盛、地域安全、家内安全
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