もとは河村徳右衛門の邸内社、腫物平癒と報恩で里芋のお供えの風習
[住所]東京都墨田区立川3-18-2
[電話]03-3681-0010 - 亀戸天神社
元徳稲荷神社(げんとくいなりじんじゃ)は、東京都墨田区立川にある神社。現在は亀戸天神社の兼務社である。御朱印の有無は不明。
三河国の郷士であった河村徳右衛門(川村徳右衛門)が河村家の氏神として、伏見稲荷社より神璽を遷して邸内で正一位稲荷大明神として奉斎したのが始まり。
江戸開府に伴い、河村氏も江戸に出府、神田川沿岸に土地が与えられ、町名を徳右衛門町と称した。その際、当社も邸内に移された。
江戸時代前期の明暦3年(1657年)に発生した大火、いわゆる振り袖火事の後、町の再開発計画が進められた。
それに伴い、元禄元年(1688年)に徳右衛門町は墨田区竪川沿いの地に移封され、本所徳右衛門町が成立した。
当社も邸内から現在の地、つまり三ノ橋付近に移り、もと(元)神田徳右衛門邸内に鎮座していたことから、現社号が定着した。御祭神は宇賀御魂神。
日本橋浜町に下屋敷があった熊本藩細川家が、当社の御分霊を懇請し、建立したのが、現在の元徳稲荷神社・綱敷天満神社である。
ただし、当社の創祀について、元徳稲荷神社・綱敷天満神社では異説を伝える。
それによれば、当社は伏見稲荷ではなく、川村徳エ門により、伊勢の神宮(伊勢神宮)の豊受大神宮(外宮)より御分霊を受けたという。
その後、現在地に遷宮して一般市民に参拝が開放されると、豊受大神宮が瑞穂の神として国魂の神になっていたので、庶民が豊作をもたらす神として祀る場合、稲荷神社の神名で奉斎された、というもの。
ともかく。2代目徳右衛門の妻が難性の腫物を患い、当社に祈願して平癒したことに倣い、町の人々も参拝し、平癒すると土地の産物である里芋を供えたと伝わる。
飛火という腫物の病が流行した折にも、里芋を供えて祈願したと伝えられ、この積み重ねにより、当社に里芋を供える習慣ができた。
明治時代中期に活躍した9代目市川団十郎も腫物に苦しめられた時、当社に参拝したと伝えられている。
また、明治時代の縁日には出店200軒あまりに及ぶという活況を呈したという。
【ご利益】
腫物平癒、病気平癒、商売繁盛、事業成功

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・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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元徳稲荷神社(げんとくいなりじんじゃ)は、東京都墨田区立川にある神社。現在は亀戸天神社の兼務社である。御朱印の有無は不明。
三河国の郷士であった河村徳右衛門(川村徳右衛門)が河村家の氏神として、伏見稲荷社より神璽を遷して邸内で正一位稲荷大明神として奉斎したのが始まり。
江戸開府に伴い、河村氏も江戸に出府、神田川沿岸に土地が与えられ、町名を徳右衛門町と称した。その際、当社も邸内に移された。
江戸時代前期の明暦3年(1657年)に発生した大火、いわゆる振り袖火事の後、町の再開発計画が進められた。
それに伴い、元禄元年(1688年)に徳右衛門町は墨田区竪川沿いの地に移封され、本所徳右衛門町が成立した。
当社も邸内から現在の地、つまり三ノ橋付近に移り、もと(元)神田徳右衛門邸内に鎮座していたことから、現社号が定着した。御祭神は宇賀御魂神。
日本橋浜町に下屋敷があった熊本藩細川家が、当社の御分霊を懇請し、建立したのが、現在の元徳稲荷神社・綱敷天満神社である。
ただし、当社の創祀について、元徳稲荷神社・綱敷天満神社では異説を伝える。
それによれば、当社は伏見稲荷ではなく、川村徳エ門により、伊勢の神宮(伊勢神宮)の豊受大神宮(外宮)より御分霊を受けたという。
その後、現在地に遷宮して一般市民に参拝が開放されると、豊受大神宮が瑞穂の神として国魂の神になっていたので、庶民が豊作をもたらす神として祀る場合、稲荷神社の神名で奉斎された、というもの。
ともかく。2代目徳右衛門の妻が難性の腫物を患い、当社に祈願して平癒したことに倣い、町の人々も参拝し、平癒すると土地の産物である里芋を供えたと伝わる。
飛火という腫物の病が流行した折にも、里芋を供えて祈願したと伝えられ、この積み重ねにより、当社に里芋を供える習慣ができた。
明治時代中期に活躍した9代目市川団十郎も腫物に苦しめられた時、当社に参拝したと伝えられている。
また、明治時代の縁日には出店200軒あまりに及ぶという活況を呈したという。
【ご利益】
腫物平癒、病気平癒、商売繁盛、事業成功

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