南北朝期の御神体は木更津から漂着? 子供大好きな神
[住所]神奈川県横浜市中区本牧原29-18
[電話]045-261-6902 - 日枝神社
吾妻神社(あづまじんじゃ)は、神奈川県横浜市中区本牧原にある神社。近代社格では村社。市バスのバス停に吾妻神社前がある。現在は お三の宮日枝神社の兼務社で、御朱印も日枝神社で頂ける。
横浜本牧の三溪園ほど近区に鎮座する。南北朝時代の文和3年(1354年)、新田義貞の家臣である篠塚伊賀守平重広が勧請して創建されたと伝わる。
御神体に文和甲午3年正月17日祠基新謹平重広と銘記があるという。この御神体は一説に、元南総木更津吾妻村の吾妻社の御神体で、甲胃を穿ち剣を持った御姿だという。
波に漂っていたところを、当地の漁師吉太夫という者の網にかかったので、江戸時代前期の天和3年(1683年)、社殿を建立し、吉太夫を神官としたと伝える。
しかし、旧神主橋本家所蔵の神祇管領の書類によれば、吉太夫は寛政年間(1789年-1801年)の人で、150年の相違がある。
『新編武蔵風土記稿』本郷村の条に「吾妻権現社」とあり、別当は天徳寺だった。吾妻明神社とも呼ばれた。
同書によれば、幼児の病や疳の虫に霊験があり、回復した後は、粟の餅を供する風習があったという。
以上を網羅した伝承が残る。かつて「向こう地」と呼ばれた江戸湾対岸の上総国木更津にあった御神体像は、「お吾妻さま」として崇められていた。
たいそう子供好きの神様であったといい、ある寒い日、焚き火を囲む子供たちを見て、子供の姿に化身し、仲間に加わろうとした。
しかし、子供たちは見かけない子供を仲間に入れず、焚き火の中に突き転ばして逃げ去ってしまった。
あまりの熱さに「お吾妻さま」は海に飛び込み、そのまま本牧の浜に流れ着き、地元の漁師吉兵衛(上述の吉太夫と同一か)の網にかかった。
吉兵衛は焦げた「お吾妻さま」の腹部に布を巻いて当地に祀ったというもの。ひどい目に遭った「お吾妻さま」ではあるが、子供好きであることに変わりはなかった。
そこで、小児の病難を救い、癇の虫を封じてくれたため、安産の神、子供の神、虫封じの神として信仰された、という。
明治6年(1873年)12月、村社に列した。御祭神は日本武尊。例祭は1月17日と7月17日。境内社に稲荷社がある。
この由緒深い当社の御神体は、残念ながら戦災で焼失した。実際、昭和初期には煤で真っ黒になっていたと伝わっている。
御神体が戦災で焼失する以前は、7月の例祭当日、御神体像の腹部の帯を交換する「腹帯巻換の神事」が行われていた。今は、神事のみが執り行われている。
境内には獅子山がある。秋になると見事なツタに覆い尽くされてしまうが、ここに、砲弾を抱えている狛犬や、それぞれの子獅子がある。
いわゆる砲弾狛犬で、その砲弾には「戦捷紀念」と刻まれている。日露戦争の戦勝モニュメントの一つ。獅子山の正面には、当時の漢詩もが刻まれている。
当社のこの狛犬は明治39年(1906年)の建立。砲弾狛犬は他に、川崎市中原区の大戸神社、川崎市川崎区の大島八幡神社、横浜市南区山王町の日枝神社、千葉県館山市長須賀の熊野神社にある。
【ご利益】
子供の神、疳の虫、病気平癒、安産、海上安全、大漁満足
【関連記事】
・砲弾狛犬とは? - 日露戦争(1904年-1905年)の戦勝記念、全国に五社のみ?
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[電話]045-261-6902 - 日枝神社
吾妻神社(あづまじんじゃ)は、神奈川県横浜市中区本牧原にある神社。近代社格では村社。市バスのバス停に吾妻神社前がある。現在は お三の宮日枝神社の兼務社で、御朱印も日枝神社で頂ける。
横浜本牧の三溪園ほど近区に鎮座する。南北朝時代の文和3年(1354年)、新田義貞の家臣である篠塚伊賀守平重広が勧請して創建されたと伝わる。
御神体に文和甲午3年正月17日祠基新謹平重広と銘記があるという。この御神体は一説に、元南総木更津吾妻村の吾妻社の御神体で、甲胃を穿ち剣を持った御姿だという。
波に漂っていたところを、当地の漁師吉太夫という者の網にかかったので、江戸時代前期の天和3年(1683年)、社殿を建立し、吉太夫を神官としたと伝える。
しかし、旧神主橋本家所蔵の神祇管領の書類によれば、吉太夫は寛政年間(1789年-1801年)の人で、150年の相違がある。
『新編武蔵風土記稿』本郷村の条に「吾妻権現社」とあり、別当は天徳寺だった。吾妻明神社とも呼ばれた。
同書によれば、幼児の病や疳の虫に霊験があり、回復した後は、粟の餅を供する風習があったという。
以上を網羅した伝承が残る。かつて「向こう地」と呼ばれた江戸湾対岸の上総国木更津にあった御神体像は、「お吾妻さま」として崇められていた。
たいそう子供好きの神様であったといい、ある寒い日、焚き火を囲む子供たちを見て、子供の姿に化身し、仲間に加わろうとした。
しかし、子供たちは見かけない子供を仲間に入れず、焚き火の中に突き転ばして逃げ去ってしまった。
あまりの熱さに「お吾妻さま」は海に飛び込み、そのまま本牧の浜に流れ着き、地元の漁師吉兵衛(上述の吉太夫と同一か)の網にかかった。
吉兵衛は焦げた「お吾妻さま」の腹部に布を巻いて当地に祀ったというもの。ひどい目に遭った「お吾妻さま」ではあるが、子供好きであることに変わりはなかった。
そこで、小児の病難を救い、癇の虫を封じてくれたため、安産の神、子供の神、虫封じの神として信仰された、という。
明治6年(1873年)12月、村社に列した。御祭神は日本武尊。例祭は1月17日と7月17日。境内社に稲荷社がある。
この由緒深い当社の御神体は、残念ながら戦災で焼失した。実際、昭和初期には煤で真っ黒になっていたと伝わっている。
御神体が戦災で焼失する以前は、7月の例祭当日、御神体像の腹部の帯を交換する「腹帯巻換の神事」が行われていた。今は、神事のみが執り行われている。
境内には獅子山がある。秋になると見事なツタに覆い尽くされてしまうが、ここに、砲弾を抱えている狛犬や、それぞれの子獅子がある。
いわゆる砲弾狛犬で、その砲弾には「戦捷紀念」と刻まれている。日露戦争の戦勝モニュメントの一つ。獅子山の正面には、当時の漢詩もが刻まれている。
当社のこの狛犬は明治39年(1906年)の建立。砲弾狛犬は他に、川崎市中原区の大戸神社、川崎市川崎区の大島八幡神社、横浜市南区山王町の日枝神社、千葉県館山市長須賀の熊野神社にある。
【ご利益】
子供の神、疳の虫、病気平癒、安産、海上安全、大漁満足
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