村民を水害から救った大女様(おおめさま)、女性守護・安産
[住所]神奈川県川崎市幸区幸町1ー994
[電話]044-522-4607
女躰大神(にょたいおおかみ)は、神奈川県川崎市幸区幸町にある神社。近代社格では村社。女躰神社(にょたいじんじゃ)とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。口碑によれば、戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)より女躰権現と称えられ、南河原村の真言宗宝蔵院が別当職だったという。
当社草創に関しては伝承が残る。当村は、六郷神社を氏神とする武蔵国荏原郡八幡塚の農民が移住し、開墾に従事し、民家が次第に増加して発展してきた。
当地は、多摩川の南側にあったので、南河原村と名付けられた。しかし立地として、降雨のたびごとに多摩川の土砂堆積し、田畑への冠水が甚だしかった。
また、洪水の都度、流域が変化し、毎回大きな災害を引き起こし、農作業ができない状態になった時のこと。
一人の女丈夫が水中に身を投じ、一身を犠牲に供し、その真心により、その後は大災害もなくなり、住民は安堵し、農耕に励むことができるようになったという。
これも女丈夫の偉大なる御徳の御陰と敬慕し、その偉業を称え、また後世に伝えるため、多摩川辺りの俗称「ニコニコ松」の下に一祠を建立し、その御霊を奉斎したという。
このハイカラなネーミングの松は現在所在地不明。ただし、近辺には「ニコニコ通り」と呼ばれる商店街があり、関係が指摘されている。
ともかく、以来、大女様(おおめさま)と呼ばれ崇敬を集めた。その後、現在地に遷座し、旧南河原村の鎮守となった。
『新編武蔵風土記稿』南河原村の条にも「女體権現社」とある。「前に石鳥居を建、村の鎮守にして例祭毎年九月十九日」などと記載されている。
明治になり神仏分離し、明治6年(1873年)、村社に列し、現社号に改称した。女丈夫の御霊を祀っていたが、この頃には御祭神は女性の祖神である伊邪那美命に変更。
さらに、その夫である伊邪那岐命を配祀して、夫婦の神を祀る神社となった。大正11年(1922年)、神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和32年(1957年)、境内に併設する形で当社が運営する「女躰神社幼稚園」が開園、現在も存続し、地域から親しまれている。
どちらにしろ、現在も悲嘆にくれる村人を救ったという故事にちなみ、女性の悩みを解決し、願いを叶えてくれる神、安産の神として信仰を受けている。
現在は、天照大神・建御名方神・誉田別命も併せて祀る。例祭は大正年間(1912年-1926年)までは10月18日・19日だったが、現在は8月第3土・日曜日。
当日は、氏子15町内を神輿が巡行し、16時頃から「湯花式」の神事が始まり、夜に入って神楽が奏される。
境内には樹齢200年を数える大銀杏(イチョウ)があり、黄葉が美しく、落葉時には境内一面が黄色一色に染まる。
東日本大震災の復興祈願のためのシンボルとして、やなせたかしによるアンパンマンの巨大絵馬が置かれていることでも知られる。
なお、当社は紺屋町の女體神社を兼務している。
【ご利益】
女性守護、安産、家内安全、夫婦和合、開運招福
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[電話]044-522-4607
女躰大神(にょたいおおかみ)は、神奈川県川崎市幸区幸町にある神社。近代社格では村社。女躰神社(にょたいじんじゃ)とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。口碑によれば、戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)より女躰権現と称えられ、南河原村の真言宗宝蔵院が別当職だったという。
当社草創に関しては伝承が残る。当村は、六郷神社を氏神とする武蔵国荏原郡八幡塚の農民が移住し、開墾に従事し、民家が次第に増加して発展してきた。
当地は、多摩川の南側にあったので、南河原村と名付けられた。しかし立地として、降雨のたびごとに多摩川の土砂堆積し、田畑への冠水が甚だしかった。
また、洪水の都度、流域が変化し、毎回大きな災害を引き起こし、農作業ができない状態になった時のこと。
一人の女丈夫が水中に身を投じ、一身を犠牲に供し、その真心により、その後は大災害もなくなり、住民は安堵し、農耕に励むことができるようになったという。
これも女丈夫の偉大なる御徳の御陰と敬慕し、その偉業を称え、また後世に伝えるため、多摩川辺りの俗称「ニコニコ松」の下に一祠を建立し、その御霊を奉斎したという。
このハイカラなネーミングの松は現在所在地不明。ただし、近辺には「ニコニコ通り」と呼ばれる商店街があり、関係が指摘されている。
ともかく、以来、大女様(おおめさま)と呼ばれ崇敬を集めた。その後、現在地に遷座し、旧南河原村の鎮守となった。
『新編武蔵風土記稿』南河原村の条にも「女體権現社」とある。「前に石鳥居を建、村の鎮守にして例祭毎年九月十九日」などと記載されている。
明治になり神仏分離し、明治6年(1873年)、村社に列し、現社号に改称した。女丈夫の御霊を祀っていたが、この頃には御祭神は女性の祖神である伊邪那美命に変更。
さらに、その夫である伊邪那岐命を配祀して、夫婦の神を祀る神社となった。大正11年(1922年)、神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和32年(1957年)、境内に併設する形で当社が運営する「女躰神社幼稚園」が開園、現在も存続し、地域から親しまれている。
どちらにしろ、現在も悲嘆にくれる村人を救ったという故事にちなみ、女性の悩みを解決し、願いを叶えてくれる神、安産の神として信仰を受けている。
現在は、天照大神・建御名方神・誉田別命も併せて祀る。例祭は大正年間(1912年-1926年)までは10月18日・19日だったが、現在は8月第3土・日曜日。
当日は、氏子15町内を神輿が巡行し、16時頃から「湯花式」の神事が始まり、夜に入って神楽が奏される。
境内には樹齢200年を数える大銀杏(イチョウ)があり、黄葉が美しく、落葉時には境内一面が黄色一色に染まる。
東日本大震災の復興祈願のためのシンボルとして、やなせたかしによるアンパンマンの巨大絵馬が置かれていることでも知られる。
なお、当社は紺屋町の女體神社を兼務している。
【ご利益】
女性守護、安産、家内安全、夫婦和合、開運招福
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