頼朝が勧請、後に「波除八幡」、7月祇園舟、9月湯立神楽
[住所]神奈川県横浜市金沢区富岡東4-5-41
[電話]045-776-3838

富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、神奈川県横浜市金沢区富岡東にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

鎌倉時代初期の建久2年(1191年)、源頼朝が当郷鎮護のため 摂津の西宮の恵比寿神を勧請、奉斎したのが始まりだという。

安貞元年(1227年)には八幡大神を併せ祀り 社名も八幡宮と改められた。村民の家に僧が来て食を求めた際、6月15日の例祭当日だったので、ちょうど麦酒があり、これを勧めた。

そのお礼からか、僧は、「吾は八幡大菩薩なり、今よりして吾を祀らば悪魔を退け、加護すべし」と言って去ったという。これが当社の八幡奉斎の縁起。

鎌倉からは ちょうど鬼門の方角に当たる、海に面した小山に祀られ、社も鬼門を向いており、鎌倉幕府の厄災防除の神として崇敬された。

この小山が応長(1311年)に起きた大津波から部落を守ったことから「波除八幡」とも称ばれた。正中2年(1325年)には鎌倉の武将藤原貞康より大般若経600巻が奉納された。

別当社の僧職は寛永年間(1624年-1645年)初期までは金沢の竜華寺で、その後は明治2年(1869年)の神仏分離まで、富岡の慶珊寺の職掌だった。

当地の領主は寛永初期までは豊島明重、寛永中頃から元禄(1688年-1704年)は八木高重の子孫、宝永(1704年-1711年)以後は榊原勝興の子孫が地頭だったが、いずれも社殿の修造営に尽力した。

広く江戸方面からも信仰を集め、深川富岡八幡宮へも御分霊した。明暦2年(1656年)に地頭八木但馬守より奉納の武運長久・子孫繁栄の願文入りの梵鐘などが残されている。

『新編武蔵風土記稿』富岡村の条にも「八幡社」とあり、当時は年二度の例祭が「瀬戸明神の下社家佐野肥後守」が執行したという。

明治6年(1873年)、村社に列した。明治42年(1909年)、村内の無格社伊勢皇大神宮を合祀。大正2年(1913年)、神饌幣帛料供進神社に指定された。

旧富岡村の鎮守であり、御祭神は、応神天皇蛭子命天照皇大神

例祭は旧暦6月15日(新暦7月)と旧暦8月25日(新暦9月)で、それぞれ祇園舟と湯立神楽が行われる。これらは鎌倉時代より800年以上も継承されている特殊神事。

祇園舟では、青茅で作った70センチ×50センチほどの楕円形の舟に、お供え物として、折敷に小麦の粒を敷く。

その上に大麦の粉で作っただんごを置き、麦麹で醸した甘酒をかけたものを載せる。舟縁には1年分12本の御幣を並べ立て、中央には大きな御幣を立てて、沖合遠く流す。

1年間の罪穢を託して沖合遠く流す夏越の祓と、収穫した麦の初穂を海の神にお供えし、五穀の豊穰と海の幸の豊漁に感謝するという要素が一緒になった神事。

八幡丸・弥栄丸という五丁櫓の木造の専用船で行われ、帰路は岸まで全速力競漕で帰ってくるという勇壮な御祭り。

湯立神楽は、湯花神楽・鎌倉神楽とも呼ばれ、もともと鶴岡において職掌と呼ばれる人達によって奉納されていた神楽である。

現在旧職掌家を中心に伝えられており、当宮では9月の秋季大祭のほか、2月と11月初の卯の日に卯陪従(うべえじゅう)の夜神楽として行われている。

社殿の造営は 天正(1573年-1593年)・慶長(1596年-1615年)・寛永などの棟札に、鶴岡八幡宮造営にあわせ、また破損の度に、時の地頭が行ったことが記されている。

寛永元年(1624年)から寛永3年(1626年)の鶴岡八幡宮の造営に際し、漆塗りの本殿の扉を拝戴し、当宮本殿内陣の扉として移設された。

現在の本殿は安土桃山時代の天正14年(1586年)の建築で、平成14年(2002年)の造営により、覆殿を復興、柿葺の屋根、丹塗の社殿など、桃山時代の姿に蘇った。

当宮社頭においては、八幡大神・恵比須様の御霊験にあやかり、商売繁盛や所願成就の各祈願を奉仕する他、えびすだるま・うまくいくお守・勝守・まがたまお守なども用意している。

なお、当社は横浜金沢七福神(金澤七福神)のうち恵比寿(蛭子尊)が祀られている。当社の社叢林は市の天然記念物に指定されている。

【ご利益】
厄災除け、商売繁盛、事業成功、病魔退散、無病息災(公式HP
富岡八幡宮 神奈川県横浜市金沢区富岡東
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