吉田新田の鎮守、9月お三の宮秋祭り、市内屈指の規模
[住所]神奈川県横浜市南区山王町5-32
[電話]045-261-6902
日枝神社(ひえじんじゃ)は、神奈川県横浜市南区山王町にある神社。近代社格では村社。お三の宮日枝神社と呼ばれる。参拝すれば、御朱印を頂ける。
現在の横浜市の中心部、中区と南区にわたる大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線から当地までのいわゆる関外地区の広い範囲は、釣鐘の形をした入海だった。
江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた吉田勘兵衛良信という商人が、この入海を埋立て新田を築くことにした。
いわゆる吉田新田である。この大工事は、江戸時代前期の明暦2年(1656年)7月17日に鍬入れをしたが、翌年5月10日から13日にわたる集中豪雨のために失敗に終わる。
しかし、万治2年(1659年)2月11日に再度試みて、寛文7年(1667年)、11年あまりの歳月と8038両の巨費により、市内最古で35万坪という最大規模を誇る新田開発が成功した。
そこで勘兵衛は、新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に、寛文13年(1673年)9月、江戸の山王社より勧請し、山王社と併せて稲荷社を創建した。
新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈った。このため、当社は「横浜開拓の守護神」として、氏子をはじめ横浜に置いて崇敬されるようになった。
創建当時、勘兵衛により奉納された獅子狗二体が現存する。非常に貴重な当時のもので、現在は、当社殿の御扉の中、外陣に安置されている。
同時に奉納された白狐二体は、大正12年(1923年)の関東大震災の際に焼失した。
古くは山王社・山王大権現・山王宮と称せられたが、今では「お三の宮」「お三さま」と広く親しまれ、崇め称えられている。
これは、山王宮→山の宮→おさんの宮と転訛したこと、さらには「お三の人柱伝説」を付会して「お三の宮」と書かれ、呼ばれるに至ったもの。
一度開発に失敗した勘兵衛は、再度の埋立工事の成就を祈願するため氏神赤坂の山王社に詣で、更に日頃念ずる日蓮宗総本山身延山久遠寺に参詣した。
そこで、訳あって夫の仇を討ちたいと諸国を流浪していた「お三」という女性に出会った。勘兵衛は、私の家に暫く身を寄せて時期を待つよう促した。
家族の一員として迎え、お三は勘兵衛家に仕えることになった。再度の埋立開始が決まった万治2年のある日、お三は勘兵衛に向かい、次のように進言した。
同年9月13日、現在の当社裏にあたる波打ち際より白衣に身をつつんだお三は、合掌して天を仰ぎ大海に身を投じ、埋立の大事業完遂の人柱となった、というもの。
この他、当社が近江二十一社の大宮・二の宮・三の宮と三社を祀っているため、勘兵衛が吉田新田建設時に三巻の大乗教の経本を埋納したためなど諸説ある。
もと常清寺が別当だったが、元禄13年(1700年)、角井式部尉藤原重勝神主となり以来現宮司11代に及ぶという。
明治8年(1975年)、村社に列し、昭和3年(1928年)9月11日には神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和52年(1977年)6月25日には稲荷神社を合祀。現在までに当社の御祭神は、大山咋命・宇迦之御魂命。
境内には本殿の他、旧稲荷神社の社殿の一部を改装した神楽殿、もとは新田の用水取り入れ口にあった堰神社、お三の宮日枝幼稚園がある。
参道の両脇に、明治40年(1907年)10月建立、昭和11年(1936年)9月再建された砲弾を抱えた狛犬が安置されている。いわゆる砲弾狛犬。
砲弾狛犬は他に、市内中区本牧原の吾妻神社、川崎市川崎区の大島八幡神社、川崎市中原区の大戸神社、千葉県館山市長須賀の熊野神社にある。このうち、吾妻神社は当社が兼務している。
例祭は9月敬老の日の直前の金・土・日曜日で例大祭。横浜随一の大神輿、通称「千貫神輿」が1日かけて氏子町内を巡行する。
西暦奇数年に行われる本祭では、氏子30ヶ町約50基の町神輿が伊勢佐木町まで練り歩く、町内神輿連合渡御が行われる。
境内では神賑行事として、氏子有志による奉納演芸会やお囃子・和太鼓の奉納、児童園児による書画の作品展などが催され、献灯や縁日で賑わう。
このお三の宮秋祭りは、「かながわのまつり50選」にも選ばれ、市内屈指の規模を誇るとされる。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、家内安全、地域安全、厄災除け(公式HP)

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[電話]045-261-6902
日枝神社(ひえじんじゃ)は、神奈川県横浜市南区山王町にある神社。近代社格では村社。お三の宮日枝神社と呼ばれる。参拝すれば、御朱印を頂ける。
現在の横浜市の中心部、中区と南区にわたる大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線から当地までのいわゆる関外地区の広い範囲は、釣鐘の形をした入海だった。
江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた吉田勘兵衛良信という商人が、この入海を埋立て新田を築くことにした。
いわゆる吉田新田である。この大工事は、江戸時代前期の明暦2年(1656年)7月17日に鍬入れをしたが、翌年5月10日から13日にわたる集中豪雨のために失敗に終わる。
しかし、万治2年(1659年)2月11日に再度試みて、寛文7年(1667年)、11年あまりの歳月と8038両の巨費により、市内最古で35万坪という最大規模を誇る新田開発が成功した。
そこで勘兵衛は、新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に、寛文13年(1673年)9月、江戸の山王社より勧請し、山王社と併せて稲荷社を創建した。
新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈った。このため、当社は「横浜開拓の守護神」として、氏子をはじめ横浜に置いて崇敬されるようになった。
創建当時、勘兵衛により奉納された獅子狗二体が現存する。非常に貴重な当時のもので、現在は、当社殿の御扉の中、外陣に安置されている。
同時に奉納された白狐二体は、大正12年(1923年)の関東大震災の際に焼失した。
古くは山王社・山王大権現・山王宮と称せられたが、今では「お三の宮」「お三さま」と広く親しまれ、崇め称えられている。
これは、山王宮→山の宮→おさんの宮と転訛したこと、さらには「お三の人柱伝説」を付会して「お三の宮」と書かれ、呼ばれるに至ったもの。
一度開発に失敗した勘兵衛は、再度の埋立工事の成就を祈願するため氏神赤坂の山王社に詣で、更に日頃念ずる日蓮宗総本山身延山久遠寺に参詣した。
そこで、訳あって夫の仇を討ちたいと諸国を流浪していた「お三」という女性に出会った。勘兵衛は、私の家に暫く身を寄せて時期を待つよう促した。
家族の一員として迎え、お三は勘兵衛家に仕えることになった。再度の埋立開始が決まった万治2年のある日、お三は勘兵衛に向かい、次のように進言した。
今度の事業は容易ではないと思います。神仏を深く帰依なさる旦那様には、必ずやご加護があることと信じますが、古来人柱をたてるとその験があると聞き及んでいますそこで、日頃の恩に報いるのはこの時と、自ら人柱になりたいと申し出た。勘兵衛は人命の尊さを説いて押し止めたが、お三は聞き入れなかった。
同年9月13日、現在の当社裏にあたる波打ち際より白衣に身をつつんだお三は、合掌して天を仰ぎ大海に身を投じ、埋立の大事業完遂の人柱となった、というもの。
この他、当社が近江二十一社の大宮・二の宮・三の宮と三社を祀っているため、勘兵衛が吉田新田建設時に三巻の大乗教の経本を埋納したためなど諸説ある。
もと常清寺が別当だったが、元禄13年(1700年)、角井式部尉藤原重勝神主となり以来現宮司11代に及ぶという。
明治8年(1975年)、村社に列し、昭和3年(1928年)9月11日には神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和52年(1977年)6月25日には稲荷神社を合祀。現在までに当社の御祭神は、大山咋命・宇迦之御魂命。
境内には本殿の他、旧稲荷神社の社殿の一部を改装した神楽殿、もとは新田の用水取り入れ口にあった堰神社、お三の宮日枝幼稚園がある。
参道の両脇に、明治40年(1907年)10月建立、昭和11年(1936年)9月再建された砲弾を抱えた狛犬が安置されている。いわゆる砲弾狛犬。
砲弾狛犬は他に、市内中区本牧原の吾妻神社、川崎市川崎区の大島八幡神社、川崎市中原区の大戸神社、千葉県館山市長須賀の熊野神社にある。このうち、吾妻神社は当社が兼務している。
例祭は9月敬老の日の直前の金・土・日曜日で例大祭。横浜随一の大神輿、通称「千貫神輿」が1日かけて氏子町内を巡行する。
西暦奇数年に行われる本祭では、氏子30ヶ町約50基の町神輿が伊勢佐木町まで練り歩く、町内神輿連合渡御が行われる。
境内では神賑行事として、氏子有志による奉納演芸会やお囃子・和太鼓の奉納、児童園児による書画の作品展などが催され、献灯や縁日で賑わう。
このお三の宮秋祭りは、「かながわのまつり50選」にも選ばれ、市内屈指の規模を誇るとされる。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、家内安全、地域安全、厄災除け(公式HP)

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