推古朝創建の「人不入斗宮」、大国主命の眷属が社名に
[住所]神奈川県横浜市中区日ノ出町2-132
[電話]045-241-1122 - 伊勢山皇大神宮
子神社(ねのじんじゃ)は、神奈川県横浜市中区日ノ出町にある神社。近代社格では村社。現在は伊勢山皇大神宮の兼務社で、御朱印も伊勢山皇大神宮で頂けるが、印はなく、墨書きのみ。
第33代推古天皇の御宇に創建されたと伝えられる。平安時代末期の承安年間(1171年-1175年)から代々赤門東福寺が別当にあたった。
しかし東福寺は室町時代の長禄元年(1457年)、現在地に移転した。毎年のように海賊の略奪を受けたとされ、安土桃山時代の天正3年(1575年)には兵火に罹った。
文禄3年(1595年)の検地水帳には、神楽畑4畝16歩とともに松平越前守が陣営中に編入した際、当社の四隅に霊地の保護のため、禁制札を掲げたという。
享保8年(1723.年)、社地は東西43間、南北9間と改められた。
江戸時代後期の文政8年(1826年)には火災があって、過去の略奪や兵火とともに、古記・旧伝ともに焼失して、詳細は不詳とされる。
しかし、里の鎮守として崇敬され、「人不入斗宮(ひといれずのみや)」と称され、樹木鬱蒼たる社叢に囲まれた大社だったという。
幕末の慶応元年(1865年)、周辺諸村の神社を合祀、明治6年(1873年)、村社に列した。
大正4年(1915年)9月、境内を拡張し、諸設備を整えた。翌大正5年(1916年)10月13日、神饌幣帛料供進社に指定された。
御祭神は大国主命。その遣いが子(ね、ネズミ)であるため、甲子(きのえね)の日に祭事を行い、そのため「子の神様」と呼ばれ、社名にもなった。
大国主命といえば、因幡の白兎が連想されやすいが、『古事記』には因幡の白兎の他、鼠に窮地を救われる話が掲載されている。
例祭は8月21日。その前後の金曜日は夕宮祭で、日曜日が後宮祭。各町会みこしや山車の渡御があり、御神酒所祭が行われる。
境内には猿田彦命像がある。境内の楠木(クスノキ)は樹高20メートル、周り1.8メートルで、市の名木古木に指定されている。
なお、市内には保土ケ谷区今井町にも同名の神社がある。
【ご利益】
商売繁盛、旅行安全、縁結び、医薬、病気平癒

【関連記事】
・神奈川県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、神奈川県に鎮座している神社の一覧
[電話]045-241-1122 - 伊勢山皇大神宮
子神社(ねのじんじゃ)は、神奈川県横浜市中区日ノ出町にある神社。近代社格では村社。現在は伊勢山皇大神宮の兼務社で、御朱印も伊勢山皇大神宮で頂けるが、印はなく、墨書きのみ。
第33代推古天皇の御宇に創建されたと伝えられる。平安時代末期の承安年間(1171年-1175年)から代々赤門東福寺が別当にあたった。
しかし東福寺は室町時代の長禄元年(1457年)、現在地に移転した。毎年のように海賊の略奪を受けたとされ、安土桃山時代の天正3年(1575年)には兵火に罹った。
文禄3年(1595年)の検地水帳には、神楽畑4畝16歩とともに松平越前守が陣営中に編入した際、当社の四隅に霊地の保護のため、禁制札を掲げたという。
享保8年(1723.年)、社地は東西43間、南北9間と改められた。
江戸時代後期の文政8年(1826年)には火災があって、過去の略奪や兵火とともに、古記・旧伝ともに焼失して、詳細は不詳とされる。
しかし、里の鎮守として崇敬され、「人不入斗宮(ひといれずのみや)」と称され、樹木鬱蒼たる社叢に囲まれた大社だったという。
幕末の慶応元年(1865年)、周辺諸村の神社を合祀、明治6年(1873年)、村社に列した。
大正4年(1915年)9月、境内を拡張し、諸設備を整えた。翌大正5年(1916年)10月13日、神饌幣帛料供進社に指定された。
御祭神は大国主命。その遣いが子(ね、ネズミ)であるため、甲子(きのえね)の日に祭事を行い、そのため「子の神様」と呼ばれ、社名にもなった。
大国主命といえば、因幡の白兎が連想されやすいが、『古事記』には因幡の白兎の他、鼠に窮地を救われる話が掲載されている。
例祭は8月21日。その前後の金曜日は夕宮祭で、日曜日が後宮祭。各町会みこしや山車の渡御があり、御神酒所祭が行われる。
境内には猿田彦命像がある。境内の楠木(クスノキ)は樹高20メートル、周り1.8メートルで、市の名木古木に指定されている。
なお、市内には保土ケ谷区今井町にも同名の神社がある。
【ご利益】
商売繁盛、旅行安全、縁結び、医薬、病気平癒

【関連記事】
・神奈川県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、神奈川県に鎮座している神社の一覧

コメント