頼朝が安房神社を勧請、神輿を海へ担ぎ入れる風習、ちょうちん祭り
[住所]神奈川県横浜市神奈川区青木町5-29
[電話]045-441-5081

洲崎大神(すさきおおかみ/すさきだいじん)は、神奈川県横浜市神奈川区青木町にある神社。近代社格では郷社。洲崎神社(すさきじんじゃ)、洲崎様(すさきさま)とも。御朱印の有無は不明。

鎌倉時代初期の建久2年(1191年)、源頼朝が安房国一宮安房神社の御分霊を移して創建したと伝えられる。

社伝では、治承4年(1180年)、石橋山の合戦で敗れた頼朝が、相模国真鶴から海路安房国に渡り、安房神社に参籠して再起を祈願。その神恩感謝だったという。

社号から言えば、安房神社の后神にあたる洲崎神社からの勧請とも考えられる。頼朝はやはり洲崎神社を勧請して、品川神社を創建している。

創建以来、鎌倉幕府の直轄を受けて式年には神職吉田家に烏帽子、狩衣を親子の分として2着づつを賜ったとされている。頼朝奉献の神鏡が今に伝わるという。

当宮大祭では、神輿を社前の海に担ぎ入れ、安房本宮の御本霊と海上で会合する、御濱下り祭が執行された。現在では神輿を海に担ぎ入れることはないが、慣習として残る。

社殿の建築は、創建当初の規模・構造を一貫して踏襲し、様式を改めたことがないといわれている。本殿は神明造。

『新編武蔵風土記稿』神奈川宿京の町の条にも「洲崎明神社」とある。そこには、「応永年中(1394年-1428年)の鐘の銘あり」などと記されている。

『江戸名所図会』での様子は今とそう変わらず、石鳥居や周囲の地形を重ねることができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たる。

そこが、かつての船着場。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。

明治維新までは洲崎山普門寺が別当を務めたが、明治元年(1868年)3月12日、神仏混合禁止の布令によって、神職が奉祀するようになった。

同年10月11日、明治天皇が東京入城にあたり、神奈川本陣に宿泊した際、当社に内侍所奉安殿が造営された。

翌明治2年(1869年)5月20日、該建物が当社に下賜されたので、聖蹟記念に保存し、後の本殿新築では霊代奉安所としたが、明治8年(1875年)4月2日、類焼のため焼失した。

明治16年(1883年)8月24日、郷社に列し、明治40年(1907年)4月30日、神饌幣帛料供進社に指定された。

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により、社殿すべてを焼失したので、御下賜材により仮殿を造営した。

大正14年(1925年)3月10日、再興のため起工、昭和5年(1930年)6月、新殿が竣工した。

昭和15年(1940年)、御鎮座七百五十年祭が行われ、平成2年(1990年)には八百年祭が執行され、その際、日本有数の神輿を横浜そごう駐車場で奉舁した。

御祭神は、天太玉命・天比理刀賣命。相殿に素盞男命大山咋命を祀る。例祭は6月6日-8日で、一般に洲崎大神ちょうちん祭りと呼ばれる。

戦後、例祭はその前後の土・日・月曜日になり、昭和50年代半ばからは直近の金・土・日曜日に改められ、現在は6日以降の金・土・日曜日となっている。

最終の日曜日には神幸祭があり、通常、8時発輿、20時頃還御。この3日間は旧青木町内で各種神賑行事が行われる。

期間中、神奈川駅を降りて宮前商店街に入れば、そう広くない商店街に約100店ほどの出店の屋台が並び、賑わう。

拝殿は毎月1日15日、開扉される。境内社に、稲荷社がある。境内の背後には、権現山と呼ばれた幸ヶ谷公園がある。権現山は、熊野神社との関係が深い。

【ご利益】
海上安全、大漁満足・商売繁盛、夫婦和合、家内安全
洲崎大神 神奈川県横浜市神奈川区青木町
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