大鷲神社の創建に関わる伝承、花又富士に石祠のみ、春には美しい桜
[住所]東京都足立区花畑5-10
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花畑浅間神社(はなはたせんげんじんじゃ)は、東京都足立区花畑にある神社。近代社格では無格社。御朱印の有無は不明。

『新編武蔵風土記』によれば、江戸時代後期までに、花又村には浅間社が2社あった。この2社が明治4年(1871年)に合併して1社となったのが当社の起源。

このあたりは現在、日本住宅都市整備公社の団地が整然と立ち並んでいるが、1960年-1970年代までは見渡す限りの田んぼで、その中に小さな塚があった。

その塚の上に石造祠の浅間社があったことから、「野良浅間」あるいは「野浅間」とも呼ばれた。御祭神は、木花咲耶姫命

野良浅間の創建には次のような言い伝えがある。野良浅間は、もともと綾瀬川と毛長川の合流地点付近、今の大鷲神社の裏手に鎮座していた。

平安時代の康平年間(1058年-1065年)末、村人が大鷲神社を祀る場所を、その野良浅間の真南直前に決めた。

大鷲神社の信仰が高まるにつれ、野良浅間を詣でる人が次第に少なくなっていった。

そんなある夜、嵐とともに忽然と神社が消え、村人が驚いて探すと、南西の富士山の方向に点々としたたった血が続いていた。

そして、野良の中の小さな塚の上に浅間社の御神体が安置されていた。

これに対して、村人は浅間社の前に鷲明神を建てたので、御祭神が、浅間の本社である山に向って逃げようとし、その無念の血痕を残したのだと語り合った。

そこで、この地に御神体を奉祀し、その霊を慰めた。それ以後は災難水禍がなくなったという。

江戸時代中期の享保20年(1735年)に建立され、その後度々補修されてきた当社の鳥居には、旧花又村の會組、前通、堤根、仲組のヨズシ名が刻まれている。

古老によれば、戦前、仲組では当社境内にあった池に作った竹の支えに、わらの大蛇をかけ、稲わらを燃やして「おたきあげ」と称したという。

その際は、20人ほどの代表が「コノハンサクヤヒメ」の祝詞を唱えて雨乞いをしたという。

当社は社殿を持たず、古から塚の上の石祠を祀ってきたが、現在では富士塚がある。花又富士とも呼ばれる。区有形民俗文化財に登録されている。

この富士塚は、千住神社保木間氷川神社の富士塚と同じく伊藤参行を講祖とする丸参講による築造である。

築造年代は不詳だが、石鳥居の年代や伝承から、明治初年(1868年)と考えられている。また、大鷲神社には、この講中により明治5年(1872年)の記年のある富士登山絵馬が奉納されている。

当社の北側を流れる毛長川流域には、多くの古墳や遺跡の存在が確認されており、当社もその形態から古墳を利用したものと考えられている。

当社の旧別当は法泉寺だったが、その後廃寺となった。境内社に、第六天社がある。春には境内の桜が咲き誇り、隠れた花見の名所ともなっている。

【ご利益】
安産、地域安全、家内安全
花畑浅間神社 東京都足立区花畑
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