桃山期には浅草村の鎮守、江戸前期に二度遷座した大善神
[住所]東京都台東区清川2-15-1
[電話]-
寳珠稲荷神社(ほうじゅいなりじんじゃ、宝珠稲荷神社)は、東京都台東区清川にある神社。近代社格では無格社。現在は浅草神社の兼務社である。御朱印の有無は不明。
創建年代は不詳。安土桃山時代の天正17年(1589年)9月には浅草町の鎮守として祀られていたという。
古文書によれば、その時浅草町において初めて「観音市」が開かれ、後北条氏5代北条氏直がその市を取締るため、虎朱印の「禁制」を出したという。
もとは浅草町は、浅草知東院のところ、現在の伝法院の駒形広小路小あけ屋敷跡にあったが、万治元年(1658年)、その地が幕府の御用地となった。
そこで、町全体が本所亀戸村に移転を命ぜられ、当社も遷座した。
しかし、その地にあった本所御旗本衆御扶持人衆が屋敷替になり、住民もいなくなり、場末だったため、天和2年(1682)10月、名主と町民が奉行所に替地請願の訴訟状を提出。
それが受理されて、町は山谷町と小塚原町の中間の現在地、つまり旧浅草町全域に替地が与えられ、当社も遷座した。
現在地はもとは浅草寺の除地で、間口9尺、奥行20間の土地だった。玉姫稲荷神社のすぐ近くに位置する。
明治35年(1902年)8月10日、隣接地の氏子より土地81坪6合を売買によって取得。大正12年(1923年)9月の関東大震災では、境内地の各社殿や多数の樹木が全焼。
しかし「御神霊」は守られ、社守によって「拝殿」が新規造営され、そこに「御神霊」を奉安した。
昭和2・3年(1927・1928年)頃、当地区に、特別都市計画に基づく区画整理が施行され、地籍が大幅に減じられた。
しかし、境内地は西向が南向に変更になっただけで、天和2年10月に奉行所の特別指示で拝領した大半の土地は現在も氏子の協力によって引続き維持されている。
昭和20年(1945年)の東京大空襲の際、御神徳の加護と、氏子の必死の消火活動により、境内地の全焼は免れた。
御祭神は倉魂稲命。現在、境内の幟には「寶珠稲荷大善神」とある。例祭は初午祭で、2月11日、浅草神社の三社祭礼と同時に斎行される。
そう広くない境内だが、奥の院が祀られ、近くには、寶珠会館や町会事務所も完備している。
【ご利益】
火防、商売繁盛、家内安全

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寳珠稲荷神社(ほうじゅいなりじんじゃ、宝珠稲荷神社)は、東京都台東区清川にある神社。近代社格では無格社。現在は浅草神社の兼務社である。御朱印の有無は不明。
創建年代は不詳。安土桃山時代の天正17年(1589年)9月には浅草町の鎮守として祀られていたという。
古文書によれば、その時浅草町において初めて「観音市」が開かれ、後北条氏5代北条氏直がその市を取締るため、虎朱印の「禁制」を出したという。
もとは浅草町は、浅草知東院のところ、現在の伝法院の駒形広小路小あけ屋敷跡にあったが、万治元年(1658年)、その地が幕府の御用地となった。
そこで、町全体が本所亀戸村に移転を命ぜられ、当社も遷座した。
しかし、その地にあった本所御旗本衆御扶持人衆が屋敷替になり、住民もいなくなり、場末だったため、天和2年(1682)10月、名主と町民が奉行所に替地請願の訴訟状を提出。
それが受理されて、町は山谷町と小塚原町の中間の現在地、つまり旧浅草町全域に替地が与えられ、当社も遷座した。
現在地はもとは浅草寺の除地で、間口9尺、奥行20間の土地だった。玉姫稲荷神社のすぐ近くに位置する。
明治35年(1902年)8月10日、隣接地の氏子より土地81坪6合を売買によって取得。大正12年(1923年)9月の関東大震災では、境内地の各社殿や多数の樹木が全焼。
しかし「御神霊」は守られ、社守によって「拝殿」が新規造営され、そこに「御神霊」を奉安した。
昭和2・3年(1927・1928年)頃、当地区に、特別都市計画に基づく区画整理が施行され、地籍が大幅に減じられた。
しかし、境内地は西向が南向に変更になっただけで、天和2年10月に奉行所の特別指示で拝領した大半の土地は現在も氏子の協力によって引続き維持されている。
昭和20年(1945年)の東京大空襲の際、御神徳の加護と、氏子の必死の消火活動により、境内地の全焼は免れた。
御祭神は倉魂稲命。現在、境内の幟には「寶珠稲荷大善神」とある。例祭は初午祭で、2月11日、浅草神社の三社祭礼と同時に斎行される。
そう広くない境内だが、奥の院が祀られ、近くには、寶珠会館や町会事務所も完備している。
【ご利益】
火防、商売繁盛、家内安全

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