頼朝が創祀、北条早雲が小田原城へ、後に江戸へ、吉原通いの定番
[住所]東京都台東区浅草5-48-9
[電話]-
袖摺稲荷神社(そですりいなりじんじゃ)は、東京都台東区浅草にある神社。現在は浅草神社の兼務社。御朱印の有無は不明。
平安時代末期、源頼朝が伊豆に蟄居していた時、兵糧でもある米穀が乏しくならぬよう稲荷の御神体を彫刻し、豆州北条に一社を建立したのが当社の起源。
戦国時代になり、伊勢新九郎(後の北條早雲)が小田原城に移った際、その御神体を城内に遷座したところ、多くの奇瑞が顕れたという。
このことから開運稲荷と尊称されるようになった。
しかし小田原城落城に至り、この稲荷に信心篤かった小西半右衛門という者の夢に、稲荷の神があらわれ、「我を供奉して隅田の辺に下るべし」と御告げがあった。
安土桃山時代の天正18年(1590年)、小西は御神体と鈴とをもって当地に仮殿を設け、奉斎した。
仮殿を建てようとしたところ、土中より一仏が出現し、洗い清め見ると十一面観音だったので、実に稲荷の本地仏であると喜び、本社へ移し奉った。
後に奇瑞あらたなることから、徳川4代将軍家綱より町屋御免を賜り、当地に遷座した。霊験あらたかで、願望を成就し、一切の災を除くため、参拝者は群集をなした。
そこで、神籬(ひもろぎ。依り代)に多くの参拝者が袖擦り通うことから「神寿里稲荷」が社号となり、それが現社号に転化したという。
江戸時代に大流行した端唄『紀伊の国』という唄に、玉姫稲荷・三囲稲荷・合力稲荷・真崎稲荷・九郎助稲荷など奥浅草一帯にある稲荷とともに、当社も登場する。
また、吉原に近いこともあり、合力稲荷とともに、吉原通いの途上に当社にお参りするのが定番だったという。
幕末の嘉永6年(1853年)の地図『今戸箕輪浅草繪圖』の中にも、浅草寺北側百姓地の浅草田町一丁目に「袖スリイナリ」とある。
御祭神は、素盞嗚尊・稲倉魂命。
【ご利益】
良縁・学業・受験合格、病魔退散、五穀豊穣

【関連記事】
・端唄『紀伊の国』と吉原の稲荷 - 幕末に大流行した端唄に記載された吉原界隈の稲荷
・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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袖摺稲荷神社(そですりいなりじんじゃ)は、東京都台東区浅草にある神社。現在は浅草神社の兼務社。御朱印の有無は不明。
平安時代末期、源頼朝が伊豆に蟄居していた時、兵糧でもある米穀が乏しくならぬよう稲荷の御神体を彫刻し、豆州北条に一社を建立したのが当社の起源。
戦国時代になり、伊勢新九郎(後の北條早雲)が小田原城に移った際、その御神体を城内に遷座したところ、多くの奇瑞が顕れたという。
このことから開運稲荷と尊称されるようになった。
しかし小田原城落城に至り、この稲荷に信心篤かった小西半右衛門という者の夢に、稲荷の神があらわれ、「我を供奉して隅田の辺に下るべし」と御告げがあった。
安土桃山時代の天正18年(1590年)、小西は御神体と鈴とをもって当地に仮殿を設け、奉斎した。
仮殿を建てようとしたところ、土中より一仏が出現し、洗い清め見ると十一面観音だったので、実に稲荷の本地仏であると喜び、本社へ移し奉った。
後に奇瑞あらたなることから、徳川4代将軍家綱より町屋御免を賜り、当地に遷座した。霊験あらたかで、願望を成就し、一切の災を除くため、参拝者は群集をなした。
そこで、神籬(ひもろぎ。依り代)に多くの参拝者が袖擦り通うことから「神寿里稲荷」が社号となり、それが現社号に転化したという。
江戸時代に大流行した端唄『紀伊の国』という唄に、玉姫稲荷・三囲稲荷・合力稲荷・真崎稲荷・九郎助稲荷など奥浅草一帯にある稲荷とともに、当社も登場する。
また、吉原に近いこともあり、合力稲荷とともに、吉原通いの途上に当社にお参りするのが定番だったという。
幕末の嘉永6年(1853年)の地図『今戸箕輪浅草繪圖』の中にも、浅草寺北側百姓地の浅草田町一丁目に「袖スリイナリ」とある。
御祭神は、素盞嗚尊・稲倉魂命。
【ご利益】
良縁・学業・受験合格、病魔退散、五穀豊穣

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