戦国期創建、吉原通いの定番、日本一の力持ち三之宮卯之助の力石
[住所]東京都台東区浅草6-42-8
[電話]-
合力稲荷神社(ごうりきいなりじんじゃ)は、東京都台東区浅草にある神社。近代社格では無格社。御朱印の有無は不明。御朱印はないと思われる。
戦国時代の永禄年間(1558年-1569年)、当時、山谷村に住んでいた小作人らが郷中の鎮守として奉斎したのが始まりと伝えられている。
明治時代までは、修験道当山派、すなわち醍醐寺三宝院系の良法院が別当寺だった。馬頭観音も合祀したという。
江戸時代に大流行した端唄『紀伊の国』という唄に、当社は強力(剛力)として登場する。
『紀伊の国』では、当社の他、玉姫稲荷・三囲稲荷・袖摺稲荷・真崎稲荷・九郎助稲荷など奥浅草一帯にある稲荷が登場する。
また、吉原に近いこともあり、袖摺稲荷とともに、吉原通いの途上に当社にお参りするのが定番だったという。
御祭神は、保食神。日本堤の土手下あたりに、「土手のお稲荷さん」として親しまれている。
境内で、江戸時代後期から幕末にかけて、日本一の力持ちと称された、現在の埼玉県越谷市出身の三之宮卯之助(1807年-1854年)の力石が発見された。
江戸一番の見世物興業の力持ちで各地の神社や寺院で勧進興業をした。また江戸方の代表として大阪方の代表を破り日本一にもなった。
力石は持ち上げて力自慢を競うための石で、各地で卯之助の名を刻んだ石が発見されている。当社のは「足持石」と刻んであり、他に類を見ない足で持ち上げた石だと推測されている。
三之宮卯之助は、馬に乗った人を舟に乗せ、それを舟ごと持ち上げる「人馬舟持ち上げ」が得意技だった、と伝わる。
例祭は2月初午で例大祭。現在は浅草馬三町会が主催して、大祭日に「吉原狐獅子」など狐神楽が奉納される。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛

【関連記事】
・端唄『紀伊の国』と吉原の稲荷 - 幕末に大流行した端唄に記載された吉原界隈の稲荷
・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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合力稲荷神社(ごうりきいなりじんじゃ)は、東京都台東区浅草にある神社。近代社格では無格社。御朱印の有無は不明。御朱印はないと思われる。
戦国時代の永禄年間(1558年-1569年)、当時、山谷村に住んでいた小作人らが郷中の鎮守として奉斎したのが始まりと伝えられている。
明治時代までは、修験道当山派、すなわち醍醐寺三宝院系の良法院が別当寺だった。馬頭観音も合祀したという。
江戸時代に大流行した端唄『紀伊の国』という唄に、当社は強力(剛力)として登場する。
『紀伊の国』では、当社の他、玉姫稲荷・三囲稲荷・袖摺稲荷・真崎稲荷・九郎助稲荷など奥浅草一帯にある稲荷が登場する。
また、吉原に近いこともあり、袖摺稲荷とともに、吉原通いの途上に当社にお参りするのが定番だったという。
御祭神は、保食神。日本堤の土手下あたりに、「土手のお稲荷さん」として親しまれている。
境内で、江戸時代後期から幕末にかけて、日本一の力持ちと称された、現在の埼玉県越谷市出身の三之宮卯之助(1807年-1854年)の力石が発見された。
江戸一番の見世物興業の力持ちで各地の神社や寺院で勧進興業をした。また江戸方の代表として大阪方の代表を破り日本一にもなった。
力石は持ち上げて力自慢を競うための石で、各地で卯之助の名を刻んだ石が発見されている。当社のは「足持石」と刻んであり、他に類を見ない足で持ち上げた石だと推測されている。
三之宮卯之助は、馬に乗った人を舟に乗せ、それを舟ごと持ち上げる「人馬舟持ち上げ」が得意技だった、と伝わる。
例祭は2月初午で例大祭。現在は浅草馬三町会が主催して、大祭日に「吉原狐獅子」など狐神楽が奉納される。
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