愛宕山中腹、春に長い石段の両端に咲き誇るツツジが有名な古社
[住所]東京都青梅市柚木町1-944
[電話]-
柚木愛宕神社(ゆぎあたごじんじゃ)は、東京都青梅市柚木町にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
平安時代前期の元慶年間(877年-884年)、即清寺の開基にともない、その守護のために創建したと伝わる。
その後、鎌倉時代初期の建久年間(1190年-1199年)、源頼朝が畠山重忠に命じて、山麓に殿堂数宇、山頂に社殿を再建したという。
また、『皇国地誌』では、三田弾正の祖先で相馬師門の後裔師秀が辛垣城築城の際、その鎮護のため勧請したのであろうとしている。
辛垣城築城は戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)、あるいはそれ以前とされる。
江戸時代になり、その前期の慶安元年(1648年)、江戸幕府から社領20石の御朱印状を拝領した。
『新編武蔵風土記稿』柚木村の条には「愛宕社」とあり、村内の鎮守で、即清寺が別当を勤めたことなどが記されている。
幕末の安政4年(1857年)、社殿の起工を経て、文久元年(1861年)に遷宮が斉行された。明治になり、村社に列した。御祭神は火産霊神で、御神体は本地勝軍地蔵である。
昭和11年(1936年)、氏子崇敬者の便を図り、現在地に本殿・拝殿を造営し、同時に社務所・神楽殿を竣工した。
昭和53年(1978年)には参道入口に石造の大鳥居、玉垣などが造られた。境内面積は186.48坪(615平方メートル)である。例祭は4月24日。
山車が曳かれ山車の上では梅花連が重松流の祭囃子を奏でる。居囃子も数多く出て、山車との曳き合わせが見所。
標高584メートルの愛宕山の中腹に鎮座する。通称「青梅の出世階段の神社」と呼ばれるほど、長く急な石段を登ったところにある。
ちなみに、愛宕神社で出世の階段といえば、通常は港区愛宕山の同名神社の急な階段を指す。
毎年4月下旬から5月上旬、石段の両側に約1000本のツツジが咲き誇り、美しい見事な景観が見られる。別名「ツツジが丘」とも呼ばれている。
なお、当社の住所については、柚木町1-105-1とする資料もある。
【ご利益】
火防、身体壮健、リフレッシュ、家内安全

【関連記事】
・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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柚木愛宕神社(ゆぎあたごじんじゃ)は、東京都青梅市柚木町にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
平安時代前期の元慶年間(877年-884年)、即清寺の開基にともない、その守護のために創建したと伝わる。
その後、鎌倉時代初期の建久年間(1190年-1199年)、源頼朝が畠山重忠に命じて、山麓に殿堂数宇、山頂に社殿を再建したという。
また、『皇国地誌』では、三田弾正の祖先で相馬師門の後裔師秀が辛垣城築城の際、その鎮護のため勧請したのであろうとしている。
辛垣城築城は戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)、あるいはそれ以前とされる。
江戸時代になり、その前期の慶安元年(1648年)、江戸幕府から社領20石の御朱印状を拝領した。
『新編武蔵風土記稿』柚木村の条には「愛宕社」とあり、村内の鎮守で、即清寺が別当を勤めたことなどが記されている。
幕末の安政4年(1857年)、社殿の起工を経て、文久元年(1861年)に遷宮が斉行された。明治になり、村社に列した。御祭神は火産霊神で、御神体は本地勝軍地蔵である。
昭和11年(1936年)、氏子崇敬者の便を図り、現在地に本殿・拝殿を造営し、同時に社務所・神楽殿を竣工した。
昭和53年(1978年)には参道入口に石造の大鳥居、玉垣などが造られた。境内面積は186.48坪(615平方メートル)である。例祭は4月24日。
山車が曳かれ山車の上では梅花連が重松流の祭囃子を奏でる。居囃子も数多く出て、山車との曳き合わせが見所。
標高584メートルの愛宕山の中腹に鎮座する。通称「青梅の出世階段の神社」と呼ばれるほど、長く急な石段を登ったところにある。
ちなみに、愛宕神社で出世の階段といえば、通常は港区愛宕山の同名神社の急な階段を指す。
毎年4月下旬から5月上旬、石段の両側に約1000本のツツジが咲き誇り、美しい見事な景観が見られる。別名「ツツジが丘」とも呼ばれている。
なお、当社の住所については、柚木町1-105-1とする資料もある。
【ご利益】
火防、身体壮健、リフレッシュ、家内安全

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